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体験が自分を残してくれる

小さい頃から色々な体験をさせてあげた方が良いというのは、よく耳にする話だ。


体験学習、探究学習、習い事等々


赤ちゃん時代が終了すると同時に養育者は、これから目の前の子どもにどんな事を与えてあげようかと未来の我が子の可能性に期待を膨らませる。


この幼い頃に体験したことが、はたしてその子の人生でどの様に残っていくのかご存知だろうか。
青年期、壮年期を経て老年期になった時、体験を提供してくれた養育者はもう生きてはいない可能性が高い。自分の子どもが老人になった時のことを想像することは難しいが、認知症になり記憶をどんどん忘れていっても体験したことは最後まで残るのだ。

仕事柄、病気や認知症を発症した高齢者の方と出会う機会が多い私は「園芸療法」という技術を用いて目の前の方と向き合う。
植物というのは不思議なもので、植物そのものに「癒し」や「美しさ」といった心を浄化する効果があるが、視覚にくわえて触覚、味覚、嗅覚、聴覚という五感で感じることが出来る。

さらにその五感を通して「記憶」にアクセスすることができるのだ。
見たことがある風景、色、触ったことがある感覚、味わっていた懐かしい味、植物と同時に思い出される季節の香りなど。

「記憶」は千差万別。1人1人全く異なる。

園芸療法でサツマイモの栽培を行ったところ、あるご婦人は「母の記憶」を語り出した。認知症のレベルとしては割と高く、数分前のこともすぐに忘れてしまう。
しかし「母の記憶」は鮮明だった。
戦時中食べ物が少なくなってしまった時、母は皆んなに配るためのサツマイモを育てた。街から来た人が泣きながら手を合わせて、母と話している光景が今でも忘れられない。
母はとても芯が通った聡明な人だった。分け隔てなく人に接した。母をとても尊敬しているし大好きだったと。


またあるご婦人は進行性の難病を抱えており、身体を自力で動かすことが困難になっていた。
寝たきりの状態での園芸療法のセッション。
言葉も不明瞭のため話すことが出来なかったが、私が担当していた学生さんが「菊」の写真を提示した瞬間表情が変わった。
ゆっくり対話を重ね、見えてきたのは「父との記憶」だった。
父は菊を育てる人だった。父の菊は大きくて立派で何より美しかった。自慢の菊であり父だった。憧れが強く、私も学生の頃から菊作りをする様になった。
父が大好きだった。と嬉しそうに懐かしそうに語ってくれた。


記憶というのは不思議なもので
「手続き記憶」や「エピソード記憶」は最後まで残るのだ。
手を動かしたこと、身体を動かしたこと、体験したこと、心に残る対話。


記憶は頭の中で順番に引き出しにしまわれていく。カテゴリーごとに分類され普段は引き出しから出てくることはないが、きっかけがあると引き出しから取り出してくることが出来る。

しかしこのことは、ある側面から言うと諸刃の剣でもある。
自閉症の症状がある方にとっては「記憶」が自分を縛り付け、支配することにも繋がる。
「フラッシュバック」という記憶が突然、時間や状況を飛び越えて目の前に現れてしまう現象により、混乱やパニックにもなるのだ。
自閉症の症状がある方だけでなく、トラウマを抱えた人達にも「フラッシュバック」が起こる。


幼少期、青年期、壮年期を生きてきた記憶は「忘れてしまう」ことが無いのだ。
特に幼少期の頃の記憶は五感が関与していることが多く、鮮明で新鮮な状態で保存されている。
言わずもながら、この幼少期の記憶が五感に関係した不快な記憶だとどうなるか。
さらにそれが「フラッシュバック」という形で自分の意図とは関係なしに、きっかけに少し触れただけで溢れでてきてしまったらどうなるか。
これは現在生きづらさを抱えている子ども達や青年達を見ると想像がつくかもしれない。


高齢者の方と向き合う中で見えてきたのは、
「家族や他者との対話」や「大人の姿を見て感じる」ということだった。
最後に残るのは大人が覚えていない様な、たわいもない日常の記憶なのだ。
我々大人は子ども達に特別な何かを、あえて提供する必要はあまり無く大人自身が幸せに生き生きと自分らしく生きることが、子ども達が人生の最後に残る記憶として幸せを提供できるのかもしれない。

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