見出し画像

29年前

29年前の1月17日明け方。

ドカーン‼︎と、飛行機が落ちた様な聞いた事が無い音と地響きがあったかと思った次の瞬間、


ガタガタガタガタガタ‼︎‼︎


と、縦に横に大きく揺られ、ベッドに必死にしがみつきました。
それでも振り落とされそうになりながら、しがみついていると、揺れがおさまりました。


部屋を出ないと!と思い、ドアを開けようとするもドアが開かず、暗闇の中、足元に手をやると、大量の本がドアを塞いでいると分かり、必死にどけて、わずかな隙間から這い出しました。

出てすぐに余震が何度も続き、
お皿が何枚も割れる音が続きました。



その日の午後、10歳だった私は、別のところに住んでいた祖父母の家に一緒に行き、大人と一緒に被害状況を確認しました。


100年ものの古民家は、1946年に昭和南海地震で1度揺られている事もあり、家屋全壊。
幸い祖父母は違う棟で寝ていたため無事でした。

瓦の屋根が地面の上にある光景は、本当に衝撃的で、瓦の上を歩きながら、被害の大きさをじわじわと感じていきました。


次の日からは、学校もないので、母の仕事場に一緒に行き、他の子達と一緒にテレビで被害の様子を見ていました。


阪神高速が横倒しになっている光景を見て、みんなで絶句しました。


ここから先、想像を絶する様な被害状況が、時間が経つにつれ明らかになっていきました。



先日、就労支援事業所の利用者さんと29年前の地震について話していました。
(まさか、そのすぐ後に能登で地震が発生するとは夢にも思わず)


利用者さんは、当時まだ30代だったため、一番被害が大きかった長田で救助活動をしていました。
救助活動の悲しさや無念さを、沢山聞き、利用者さんも私も涙を流しながら振り返っていました。
まだ生まれて、2週間ほどの赤ちゃんを取り出す救助が1番1番辛かったと。



29年後の今日、私は我が子達が通う小学校での防災学習に参加し、
地区の子ども達と一緒に、地図を見ながら、みんなの家の場所や、避難所の確認。

いつ起こるか分からないため、色んな場面を想定した避難ルート、危険な場所の確認を行いました。


地区の子ども達が、どこに住んでいて、それぞれどのルートで通学するのかが分かり、我が子だけでなく、地区の子ども達の状況を知る事ができて、本当に良かったです。

この地区に子どもが何人いるのか、高齢者がどこに住んでいるのか、普段から知っている事で、助ける事が出来るかもしれないと実感しました。

私は29年前、命が助かり、生かせてもらいました。
辛くて辛くて、とっても悲しい出来事で、一生忘れる事は出来ませんが、今、生かされた命を懸命に生き、大人になった今だからこそ、地域を守るために何が出来るのか、考え続けたいと思います。

能登半島に想いを寄せて。
29年前に想いを馳せて。

当時の子ども達が書いた阪神淡路大震災の作文集です。
ご興味ある方は読んでみてください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?