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マイノリティが新たなマイノリティを生む??~本当の多様性への道は??

ある友人の言葉

どうもこんにちは。ピースです。前に自己紹介でも書いたように、全盲の京大生です。私は高校生の頃まで、当事者同士でつるんでるのはなんだか負けな気がしてしまっていたので、ほとんど顔を出したことがなかったのですが、大学生になってからは、情報共有や権利主張の問題が身に迫るようになり、一転して積極的に関わるようになりました。

そこから視覚障害者の世界にどっぷりつかるようになり、気づいたら去年から当事者中心の団体の運営にまで関わるようになっていました。

その中でたくさんの視覚障害者と話す機会を持って、視覚障害者と一言で言っても、様々な見え方、考え方、生き方があることを知りました。
当然共感できるものもあれば、正直驚かされた話もありました。特に印象に残っているものの中に、少し前に聞いた弱視の友人の言葉があります。

視覚障害者の集まりって全盲の人ばっかりだから、晴眼者の中にいても、視覚障害者で集まっても、私はマイノリティになってしまう。

この言葉を聞いて、私ははっとしました。視覚障害者の中ではマジョリティになる私は、社会の中ではマイノリティの立場を経験しているにもかかわらず、自分に身近なところのマイノリティの存在をほとんど意識できていなかったのです。
もちろん、「なんか弱視の人少ないな。もっと増えたらいいのにな。」と、なんとなくは思っていましたが、それでも少数派の弱視の人たちが生きづらさを感じているということには、全く気づけていなかったのです。

一応実態を整理しておきますが、人工統計上は弱視の人の方が全盲の人より圧倒的に多いんです(意外でしたか?)。でも、当事者の集まりに顔を出している人は、私の肌感覚では3対1で全盲の人の方が多いといったところでしょうか。

そうなっている理由は色々あると思います。
ある程度視力が残っていれば、あまり特別な配慮を求めなくても生活できるというのもあるでしょうし、自分が障害者だと広く公表したくないという人もいるようです。

私のように全盲だと、白杖を使わずに外出することはできないので、障害を隠すことなんてできませんし、むしろ周りに知ってもらって、色々手助けしてもらえた方が生活しやすくなります。
だから、ちょっとした生活の知恵から、より良い配慮の求め方まで、色々共有したくなり、当事者の回にも積極的に関わるようになるのです。

弱視の人の場合、その人の努力でなんとかなってしまうことも多く、障害者を変に特別視する風潮が残った社会では、あまり公表せずに暮らしたいとなるのも分かる気がします(私の偏った見方も含んでいるので、鵜呑みにしないでくださいね)。

そういうこともあって、弱視に対する社会の理解は少し遅れているような気もします。例えば、書籍の点訳はぼちぼち進んでいますが(それも十分とは言えないことは書き添えておきます)、拡大図書の普及はもっと遅れています。

確かに自分で拡大コピーしたり、拡大読書機を使ったりして、通常サイズの文字を読むことはできるのですが、最初から大きい文字になっている本を読みたいという声はもっとあっていいと思います。

紙の本を読むか、電子ブックを画面で読むかは本来自分で選べるはずのことですし、毎回拡大コピーするなんて、とってもめんどくさそうですよね。弱視だった小学生の頃を思い出すと、見るということにとことんむいていない目を酷使して頑張って文字を読むというのは、大変疲れることです。
だから、本人の努力でなんとか見えればそれでいいという考えは、少し違うように思います。

だからと言って、全国の弱視の方々に、自分の障害を公表して、生きやすい社会に変えていくためにもっと活動するべきだというつもりはありません。「障害のことを知られたくない」、「別に今はそんなに困ってない」という感情は、あって当然です。

カミングアウトはゴールではなく、選択肢であるべきです。ただ、社会の側が、障害を公表するのが憚られるような雰囲気を作っているのなら、それは大問題だと思います。

新たな生きづらさを生む当事者団体?

と、ここまではありがちな議論でしたが、友人の言葉が気づかせてくれたのは、当事者団体の側にも問題があるのではないかということです。

確かに全盲の点字ユーザーが大多数になると、教材の点訳をどう求めるかとか、サイトやアプリの音声読み上げ対応がいいかとかそういうことが主な話題になります。そんな中に点字も音声もそんなに使わない人が1人飛び込んだら、そりゃあ居づらいだろうなと思います。

全盲の人たちも社会の中ではマイノリティーで、困りごとがあふれているので、つい夢中になってしまうのですが、それによって似た境遇にいるはずの人に苦しい思いをさせてしまっていることがあるのです。

確かに、全く見えないのか見えにくいのかで、困りごとやそれを乗り越える工夫や配慮が違ってくることはあります。でも、同じ場合もありますし、そもそも全盲と弱視をはっきり区別することはできません。

一応視力の基準はあるらしいですが、少しは見えるけど点字を使ってますという人がいるように、結局は人によって様々なんです。

ついつい分かりやすいテーマやメッセージに走ってしまいますが、どんな見えなさ、見えにくさを経験している人でも、ストレスなく入ってこれて、悩みを共有できて、解決に向けて一緒に取り組める、そんな団体でなければならないですよね。

私も、これからも何らかの当事者中心の団体に関わっていくでしょうから、そういうことを心にとめておきたいと思います。

私が経験した孤独感

私も障害をテーマにした集まりの場で、孤独感を感じた経験があります。

リアルゼミで一度、聾当事者がお話しに来てくださったことがあるのですが、私にとってはとてもしんどいものでした

その方は、ひたすら手話だけで話し、それを通訳の人が聞こえる言葉に直してくれていました。その場にいた大多数の見える人たちは、その人の手話を見て感動したらしいのですが、手話や表情は全く見えず、通訳者の単調な話を90分聞かされた私は、もう退屈の極みでした。

その人の話では、昔口話が得意だったというので、それだったら手話に合わせて少しは話してくれよと思わずにはいられませんでした。少しくらい聞きにくいものでも、そこは一生懸命聞くからと。

極めつけは、最後の質疑応答の時間、とある学生が質問を言う前に、「聾者でなくてすみません。」というような感じのことを言ったときには、もう帰りたくなってしまいました。

この空間では、手話の分からない人は謝らなければならないのかと。どう頑張ったって、私には手話はできないのに、それが罪になるような空間にはいたくない

これは後から他の運営メンバーから聞いた話なのですが、この回は、ゲストの方が大物だったらしく、聾当事者や手話関係の人が大勢来ていたそうです。
質疑応答の時間もかなりの情報が手話のみでやりとりされるというある種聾文化王国のような状態だったようで、当然私は完全に置いてけぼりでした

前述の質問をした学生は、そのときがたぶんゼミ初参加という人だったみたいで、その独特の雰囲気に圧倒されて謝ったということのようなのです(その状況で質問する勇気にはただただ感服ですね)。

本当にだれも排除されてない?

この経験は確かに苦痛でしたが、私自身もとても反省しました

私もそれまで自分のやりやすいやり方、自分の過ごしやすい環境を主張することに一生懸命になっていたからです。もしかしたらそのやり方をされることで、とっても困っている人がいたかもしれないのに、私が求めている環境では心地よく過ごせない人がいたかもしれないのに、そんなことは考えず、ただ一生懸命に主張していました

しかしながら、私たちのようなマイノリティの利害は、少々言い過ぎかと思うくらいに主張しないと、聞き入れてもらえないと言うのもまた事実なのです。

例えば、視覚障害者にとって命綱の1つとも言える音響信号が、近隣の方々の迷惑になるという理由で、夜は止められるというのはよくある話ですが、「夜中に信号無視して車にひかれたら、責任とってくれるんか?」と警察に乗り込んでも、なかなか聞いてもらえないそうです(これは私の知り合いの話です)。

人の命をなんだと思ってるんだと言いたくなりますが、これが社会の現実です。
きっと先ほどの聾者の方だって、話せるからと言って毎回周りに合わせて頑張って話していたら、いつまで経っても、手話や聾文化は相手にされなかったのでしょう。

だからやっぱり、少々強引にでも自分たちの権利を主張することは、ときに必要なのです。
しかし、そのときに、これを押し切ることで排除される人はいないか、新たな困難を抱える人はいないかという意識は、忘れてはならないと思いました。

最近私はまた心を入れ替えて、自分の主張を通すことで、排除される人がいないかということにも、できる限り目を向けるようにしています。

少し前まで、見やすい視覚資料を作ることが苦手で、少々口の立つ私は、人前で話すときは何も示さずにひたすらしゃべり続けるということをやってきました。
しかし、聞いて理解するのが苦手な人や、そもそも聞こえないという人もいるはずです。だから、キーワードを並べただけのものでも、できる限りスライドを用意するようになりました。

他にも、これはまだ野望の段階なのですが、少し手話を勉強してみようかなとも思っています。相手の手話を見て理解することはできませんが、簡単な挨拶だけでも手の形を覚えて伝えられるようになったら、聾者の方とのコミュニケーションのきっかけにはなるのではないかと、思っています。
手話は分からないから、口話で伝えてくれと言っているだけでは、一向に溝は埋まりませんもんね。

そんな風に一人一人がほんの少しずつでも相手に歩み寄る工夫をしていけば、マイノリティーとかマジョリティーとか、そう言ったものを超えて繋がっていけるのではないかと思っています。

私はまだまだ未熟な頑固者ですが、ちょっとずつ変わっていきたいです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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