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京都工芸研究会ロング・インタビュー #006 野村ひろみさん(七宝)

京都工芸研究会では、ベテランの会員さんに工芸の仕事やこれまでのあゆみについてじっくりとお話を伺う「ロング・インタビュー」を連載しております。
第六弾は、京都・嵐山にアトリエを構え、東山で京七宝の製作・販売をされている有限会社ヒロミ・アート様を訪問し、代表である七宝作家の野村ひろみ様からお話を伺いました。
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白菊詰朱赤釉瓶

・歴史と美術が好きな幼少時代
・七宝との出会い
・京都を離れて感じたこと
・私の七宝
・若い作り手たちへ

歴史と美術が好きな幼少時代

編:「ヒロミ・アート」さんという社名には、野村さんのファーストネームが入っておられますね。ということは、代々の家業をお継ぎになられたのではなく、ご自身で創業されたのでしょうか?

野村:はい、1970年に「ヒロミ・アート」という社名で私が創業しました。

編:京都の伝統工芸業界で、現在現役の当代が創業されたというのは、珍しいですね。伝統工芸とは関連の無い環境だったのでしょうか?

野村:父に連れられて、美術館や博物館に行くのが好きな子どもでした。母が草木染めを趣味にしていたこともあって、美術が身近に感じられた環境だったと思います。大学は京都女子大の東洋史学科で、歴史も大好きでした。休みになるとお寺めぐりをしていました。年寄りくさいちょっと変わった子だと思われていたようです(笑)。でもいくら美術や歴史が好きでも、その道を仕事にするのは難しいと思っていました。当時は「女性は結婚して家庭に入るものだ」という価値観が当たり前の世の中でしたから。今こうやって、大好きな美術と歴史が融合した「工芸」という仕事に携わることができているのは、幸せだと感じています。

幼少期 お父様との写真

七宝との出会い

編:野村さんの七宝制作は、代々の家業ではなく、ご自分で興されたと聞きました。どういったきっかけで、七宝に携わろうと思ったのでしょうか?

野村:義理の兄が大阪で表具の仕事をしていて、遊びに行ったとき、現細見美術館に所蔵されている七宝作品の写真を見せていただいたことがあったんです(当時は細見美術館はなく細見氏個人の所有でした)。その写真の中に、七宝で作られた聚楽第の「釘隠し」があって、その美しさに魅入られてしまって。それはもう、大きくて迫力があって、見事な色合いで。それがきっかけですね。

編:京都の七宝職人さんに師事されたのですか?

野村:いえいえ、七宝を手掛けていた知り合いはいましたが、ほとんど独学です。

編:七宝は特殊な設備や道具・材料など、初期投資も大変な工芸分野だそうですが…。

野村:そうですね、私の父が歯科医をしていたので、意外とスムーズに始められたんですよ。

編:歯医者さんと七宝、ですか……?

野村:歯医者さんは、鋳造の道具や金属、バーナーなどを技工で使いますが、実は七宝制作や彫金と共通する道具や材料が多いんです(笑)。七宝は銅を使うことが多いのですが、うちには山崎貴金属店さんから銀を買うルートがあったので、銀を使ったアクセサリー制作から始められたんです。

編:なんと、実は七宝を始めるのに理想的な環境だったんですね。

野村:母が、染色家の前田雨城先生(注1)に師事していたご縁があって、私の作った七宝を差し上げたんです。とてもほめて頂き当時祇園にあったクラフトセンターをご紹介していただいて、その後物産協会へのお誘いもいただいて、販売ルートも確保できました。私はどういうわけか、「これをやりたい」と強く思うと、望みどおりに自然と道が開けるというか、周囲の様々な助けをいただけるような、不思議と恵まれているように感じるんです。ヒロミ・アートという社名も、前田雨城先生に付けていただいたんですよ。

編:まさに順風満帆ですね。それとも、苦労を苦労と思わなかったのかも?

野村:それもあると思います(笑)。私は誰が何を言っても我が道を突き進む性格なので、盟友の石川さん(注2)から「うちらが何を言うても、あんたは全然気にせえへんなぁ」と呆れられてました(笑)。でもこの性格のおかげで、厳しい工芸の世界でやってこれたのかもしれません。自分がやりたいことに正直であれば、他から言われることでくじけたりはしないようです(笑)。

1973年 百貨店の催事にて

京都を離れて

編:制作活動は、ずっと京都でされていたのですか?

野村:いえ、結婚してからすぐ夫の仕事の都合で横浜に住んでいた時期がありました。京都と横浜を行ったり来たり、七宝は絶対やめようとは思いませんでした。この間に2人の子供を得て、母や主人の理解のもとに仕事を続けました。今思うと、京都とは違う空気を吸えたのは、制作活動にとっても良い経験でした。京都の良さもあらためて感じました。
10年ほど過ぎた頃でしたかしら、物産協会の役員さんから「京七宝を続けるなら、京都に拠点を移して欲しい」と言われ、さあどうしようかと思った矢先に、突然夫の仕事が関西に変わり、思いもかけずに京都に戻れることになりました。これも本当に不思議なご縁を感じましたね。

嵐山店
東山店

編:京都は工芸の集積産地ですので、七宝制作の同業者も多かったのでしょうか?

野村:当時の業界のことはあまり知りませんでしたが、そんなに多くはなかったと思います。稲葉七宝さんが断トツの存在で後日稲葉七宝様が廃業されたときは、京都の七宝業界は今後どうなるのだろうかと心配しました。その後京都ではない他産地がなぜか「京七宝」を名乗って売りだしたことがあり、京都で七宝を作る者として危機感をおぼえました。そこであらためて京都で団結しなければということで、組合を作ったんです。一人で活動してきた私にとっては、集団で方針を決めたりするのは大変でしたが、人の繋がり・広がりもできて、良かったです。
組合として確立するために、京都府の京もの指定工芸品の認定を受けたのですが、そのことが京都新聞に掲載されたら、稲葉七宝の会長さんが嵐山工房においでになり「ひろみさん、京七宝のためにありがとう。よくやってくれた。自分にできることがあれば何でも言ってくれ」とおっしゃってくださり、本当に、感激しました。

編:今までの制作活動で、印象深かったお仕事についてお聞かせください。

野村:なんといっても、東芝の創業者・田中久重氏(注3)の「万年自鳴鐘」の復刻台座装飾ですね。図面が無く、現物と写真のみを手掛かりに復刻に取り組んだのですが、直線的な銀線が多用されているなど、「どうやって作ったのだろう?」と思うほど難しい部分もありました。常に新しいものを追求したい性格の私ですが、この時ばかりは「伝統」にどっぷり漬かって、明治の七宝の奥深さと素晴らしさに感動した日々でした。「革新」と「伝統」に垣根は無いことを発見したお仕事でした。

東芝 万年自鳴鐘(まんねんじめいしょう)
2005年8月 愛知万博グローバルハウスでの展示

私の七宝

編:七宝で最も重要なことは、なんでしょうか?

野村:七宝は色の工芸で多くの色があればあるほど色を生かし、いかに色をうまく使いこなすかが重要です。どんな色も美しく、色の魅力をどう引き出すか、考えないといけないと思います。七宝は、色同士が引き立て合い、美しいハーモニーを奏でるようなものでなければなりません。そしてもうひとつ大切なことは銀線の模様です。色とあわせて緻密な線を入れることにより繊細で優雅な七宝が表現できます。
話は少し変わりますが、現在の無鉛釉薬はどうしても納得できる鮮やかな色が出ないのが悩みですね。鉛を使わずに美しい発色が得られる七宝釉薬ができれば、七宝の未来は実用的な意味でもっと発展すると思うんですけどね。

編:今の野村さんは、どんな七宝を作りたいでしょうか?

野村:うーん、言葉ではなんとも表現しにくいのですが(笑)、頭の中にイメージはあります。近頃ますます伝統的な七宝の美しさに魅力を感じ、あの美しさと現代の美意識を融合する今の七宝を作りたいというのが私の望みであり、夢です。例えば「こうげい組体操(注4)」で陶泉窯さんとコラボした技法を使い、かつてあったものよりはるかに美しい現代の陶胎七宝を作ることは、素敵ですね。

盛上七宝花瓶「よろこび」

若い作り手たちへ

編:若手の工芸の作り手たちに向けて、ご助言をお願いします。

野村:基本的なことですが「工芸は手で作る物」であるということへの意識ですね。機械では作れない手ならではの魅力あるものを作ることが重要だと思っています。「京都の七宝」を残し続けるためにも「現代の感性に合うものづくり」を続けることです。伝統は「受け継ぐ事」と言われがちですが、私の座右の銘「伝統とは模倣することにあらず、創造することなり。」との言葉を私の七宝作りの基としています。模倣ではなく、創造を。先達の技術を使って自由に表現はしたいと思っています。私の弟子にも、「真似をするのではなく、自分の感性で」と言っており、個人の個性をつぶさないように心がけています。

注1 前田雨城氏 古代染色研究家。高倉家染頭33代目  紅師。著書「日本古代の色彩と染」

注2 石川光治氏 漆器製造「石川漆工房」社長(当時)。

注3 田中 久重(1799-1881年)江戸時代後期から明治にかけての発明家。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれた。芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者。(Wikipediaより抜粋)

注4 こうげい組体操 京都工芸研究会の異業種コラボレーション製品開発事業。

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