教会に通いはじめて一年たってわかったこと。
2021年3月8日。
私が教会に通い始めて1年を迎えた。
今朝、教会に通うきっかけをくれた先輩からお祝いのメッセージが届いた。
覚えてくださっていたこと自体が嬉しかった。
また、15日間毎日お題が送られてくるコミュニティに入っているのだが、今日のお題は「ありがとうを手紙で伝えよう」だった。
導いてくださった神様に感謝の気持ちを伝えるのにぴったりだなと思ったし、私からの手紙を心待ちにしてらっしゃるんだろうなとも思い、なんだか嬉しくもあり照れくさい気持ちにもなった。
一年間、幸せに生きてこられた。
簡単なようで、とても難しいこと。肉体が存在することはできるけど、朝起きて「今日何もしたくないな」と思ったり、これからどう生きるべきか不安が消えなかったりしていたなかで、人生の問題すべてを解決してくださったのが神様と主だった。
「知恵は、これを捕える者には命の木である、
これをしっかり捕らえる者はさいわいである。」(箴言第3章18節)
御言葉が私たちにとってどのようなものかを簡単に表した箇所だ。
聖書にはこのほかにも人生で大切なこと、すべきこと、すべきでないことがすべて書かれており
自分の価値観や行動スタイルを塗り替えていくことで、神様という最高に高い次元の考えで生きることができるようになる。
いつか、アインシュタインがこんなことを語っていた。
「どんな問題も、それをつくり出したときの意識レベルでは解決できない。」
自分の考えで普通に生きていたら、問題に突き当たりまくる。
大学生時点でさえも、進路や人間関係はやっかいな問題だと実感する。
御言葉を学ぶことは、私たちやこの世界を創造された神様の考えや心を知ることだ。
神様の意識レベルより高いものは存在しないから、問題が解決しないはずがない。
私は御言葉という神様の知恵と愛に満たされて生きるようになり、問題がすべて解決して、
あとはいかに自分が御言葉を実践できるか、自分の問題だけになった。
出会ったばかりの人に、「どうやったらそんな考えができるようになるんですか?」と聞かれることも出てきた。
「それはね、」とにやにやしながらここまでの経験を話すと、びっくりされる。
「聖書」と聞くと日本人にとってはピンと来なかったり、ファンタジーだと思ったり、キリスト教の教典だから関係ないと思ったりするかもしれない。
でも、学んで実践したときにわかるものなので、イメージや周りの人の評価で判断するより、「自分の体験をもって」判断してもらいたいなと思う。
私は一年間学んだ者として、御言葉が命の木となったし、さいわいになった。
これからの人生も楽しみだ。
ここまで導いてくださった神様と主に感謝します。