第72代 白河天皇
白河天皇は1072年20歳で一代限りの天皇として即位した。後三条天皇の第1皇子だったが、父帝らは三条天皇の血をひき藤原摂関家と関係が薄い異母弟の実仁親王を次の天皇にする意向であった。しかし後三条上皇は翌年に亡くなる。
即位後は、1058年に火災で焼けた大内裏再建のために父の後三条天皇が発令した『延久の荘園整理令』に基づき荘園整理を進めた。
白河天皇は、即位の前年に参入した藤原 賢子を中宮とした。賢子の養父・藤原師実が白河にあった別荘地を献上され、1077年 法勝寺を創建する。尊勝寺(堀河天皇)・最勝寺(鳥羽天皇)・円勝寺(待賢門院)・成勝寺(崇徳天皇)・延勝寺(近衛天皇)と、寺名に「勝」の字が入っている寺が5代にわたって隣接地に創建されて「六勝寺」と呼ばれ、応仁の乱で焼けるまで繫栄した。
1082年には再び平安京の内裏が焼失したため、藤原氏の邸宅だった堀河院が里内裏として使用された。
1083-87年、東北地方(陸奥・出羽)で清原氏の内紛『後三年の役』が起こる。陸奥守の源 義家が対応したが、朝廷はこれを私戦として処理した。この乱は東北地方に奥州藤原氏が台頭し、源氏と坂東の武士が結びつく基点となった。
幼い頃に母と死別した白河天皇は、中宮の賢子と仲睦まじかったが、賢子は5人子供を産んだ後1085年に若くして亡くなり、遺言により上醍醐(醍醐山の山上)に円光院が創建され納骨された。
賢子が亡くなった年に次の天皇候補である実仁親王が薨去した。白河天皇は次の年の1086年、まだ8歳だった賢子との間の第1皇子・第73代堀河天皇に譲位した。
白河上皇は退位後、院近臣の藤原 季綱に献上された土地に鳥羽離宮の造営を始める。淀に近く水運もよいこの地で、若い堀河天皇や代替わりして間もない経験の浅い摂政らを支えるため政治に参画した。
1090年、熊野詣を始めた。熊野はイザナミノミコトの墓所と伝わることから”黄泉返りの地”とされ、役小角を創始とする神仏習合の修験道が興隆していた。白河上皇らは鳥羽離宮近くの城南宮で7日間潔斎した後、鳥羽津から大坂の渡辺津まで船で行き、修験者に先導され紀伊国側から往復20日間かけて詣でた。熊野詣は白河上皇9回、後白河法皇34回、後鳥羽上皇28回を数えた。途中で儀礼や神楽・猿楽・相撲を鑑賞するなど、後の巡礼・参拝の旅の原型となった。
熊野詣を先導した園城寺の僧で修験者の増誉(大納言 藤原 経輔の息子)に、修験道を統括する聖護院を京に建立させ、熊野神社を鎮守社とした。
1096年 賢子との第1皇女・媞子内親王が病没したことから出家し、白河法皇となる。
また、延暦寺など寺社の強訴などから院を護る「北面武士」を創設し、以後軍事貴族が興隆することとなった。
1107年 堀河天皇が崩御し、5歳の孫 第74代鳥羽天皇を即位させる。以降も院からの人事や政への参画が長引くことになった(院政)。1111年 墓所として鳥羽離宮の泉殿に三重塔を建立し、1129年 77歳で崩御した。
白河天皇は、荘園整理令に伴って盛んになった成功(じょうごう)と呼ばれる寄進などで豊富になった天皇家の私的財産を背景にして、平安京の外に拠点を作った。また、後に「治天の君」と呼ばれる天皇家の家督としての采配が、武士が台頭していく次の時代への原因のひとつとなった。
『京都遠足』P46
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