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小野氏は、第5代 孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の子孫である和珥(わに)氏から派生したと伝わる。和珥氏は奈良県天理市あたりに勢力を持っていたが、海運に長け、滋賀県大津市の琵琶湖畔に拠点を持ち、隣接地に小野氏の史跡が多数存在する。小野 妹子もこのあたりの出身と云われ、古くから外交・地方行政官・学問などを担当する役人として朝廷に仕えた。 小野 篁は小野 岑守の長男で、13歳の時 陸奥守となった父に帯同した。学問より武術に興味があったが、帰京した時に第52代 嵯峨天皇に嘆かれて学
藤原 穏子が42歳で生んだ第60代 醍醐天皇の第十四皇子で、兄の第61代 朱雀天皇とは3歳違いだった。兄弟とも聖宝の安産祈願を受けて生誕した。兄は病弱だったため母の勧めで17年で退位し、弟の村上天皇が21歳で即位した。 朱雀天皇の代に起きた承平天慶の乱への対応で朝廷の財政がひっ迫したため倹約政治が行われた。それまで律令制度に戻そうとさまざまな施策がされたが、村上天皇の治世頃には土地や税の制度が破綻し、戻せなくなっていった。一方、和歌や音楽などが振興された。 960年、平安