南極越冬隊タロジロの真実
今回のこの本のジャンルは、なんていうんでしょうか。ノンフィクションの、まぁ言ってしまえば自伝小説(?)的なものとなるのですかね。南極越冬隊がどうにもならない事情から、無人の昭和基地に置き去りにした15頭のカラフト犬たちの中で一年後にタロジロ2匹の生存が確認されたという奇跡的なニュースについて描かれた有名な映画「南極物語」。その「南極物語」において当事者である、当時の越冬隊において「犬係」を担当されていた北村泰一さんが、映画には描かれていない視点から紡いだ1年以上もの南極大陸での探検と観測の記録です。
読み始めたきっかけ
簡単に言うと、実はこの北村泰一さんは自分の親戚で、一度お会いしたことがあり、その時に「私の小説を是非読んでくれ」と渡されていたものをいまさら読んでみようという気になったというのが正直なところです。(今まで読んでなかったのかい←)
なぜ今の今まで温めてしまったのか、ちょっと後悔していますが、結果読むことができてよかったなと感じております。
多分ですが、自分の家系というか血筋の中で唯一(他は知らない)すごいことを成し遂げている方なのでその人がどういう考えでこの越冬隊という取り組みに挑んだのかという部分に興味がありました。
本を読んで
本の構成としては、本の大部分が泰一氏が犬係として参加した第一次越冬隊での1年間の体験記+犬との日々が描かれています。全8章の内、実に7章分がほとんど第一次越冬隊での出来事となっていました。そして最後の章に、泰一氏が再び南極を訪れた第三次越冬隊にて、タロジロと再会する部分が描かれております。
感想としましては、まさに探検記といった感じで、こんなことを行っていたのかと驚かされるばかりの事実がそこには記されてありました。
まず、越冬隊とは1年間南極で過ごし、南極の冬を越しながら南極の土地についての調査・観測を行う部隊のことを指し、南極観測隊53名の中でもそのミッションに参加できるのはたったの11名であることに驚愕しました。そんなことすら自分は全く知りませんでした。
越冬隊11名が発表されるのも南極に到達してからだということも意外で、その越冬隊に選出された場面の感情も描かれており非常に興味深かったです。
実際の、南極での出来事はまさに自分には到底乗り越えられないだろうと思うような苦難ばかりで、もうあの時会った変な(失礼)おじいさんがこんな経験を乗り越えてきたすごい人だったのかと信じられない(失礼)思いでした。
最後のタロジロとの再会シーンは色々複雑な思いが含まれた泰一氏の感情描写に思わず熱いものがこみ上げざるを得なかったです。
印象的だったシーン
①泰一氏が越冬隊11名(隊長を除けば隊員10名)に選出されたシーン
探検の哲学
”探検とは知的情熱の肉体的表現”
泰一氏曰く、犬係に志願したのは計算のもとであったらしい。それまでの泰一氏の人生(当時25歳)に犬がいたことはなかったらしく、しかし当時の越冬は犬ゾリが主流であったこと、また越冬隊になった際に犬係であれば南極の奥地の奥地までついていくことができるという考えのもとで犬係として志願したそうです。結果、その「打算」は功を奏し、見事に最年少の南極越冬隊員として選ばれました。
探検に対する強いあこがれと、京都大学理学部物理学徒としてのオーロラに対する知的好奇心が泰一氏のこの一世一代の思案を実行に移させたのです。
いやはや、人間の情熱とは末恐ろしいものである。
②経験と判断の関係
越冬を開始し、初の大陸偵察旅行を実行した時に雪上車の故障が原因で偵察旅行の日程がかなり遅れてしまっていたことから予定を引き延ばして旅行を続ける案と日程通りに引き返す案とに意見が分かれたときの話も印象に残っています。
この偵察旅行自体は来るべき春の大旅行に備えて、長頭山(ラングホブデ)まで行ってみるというテスト旅行といった立ち位置でした。予定通りの場所にまではいけなかったが一応テスト旅行という名目は達成しているので引き返そうという慎重派と、泰一氏を含めた予定を超過しているが徒歩ででも長頭山(ラングホブデ)まで行ってみようという挑戦派に意見が対立したのです。
ここでの出来事について泰一氏は以下のように述べています。
人間が何かを判断するとき、その基準は、その人が経験してきたことを元として判断する。不安や未知に遭遇したとき、事故のそれまでの経験に照らし合わせて、百人百様の受け止め方をする。
~略~
"経験"が豊かであればあるほど成功率は高く評価できやすい。とすると"経験"こそわれわれが追求すべきことではないか。
結果的に、ここでは越冬隊の隊長が引き返すことを選んだことによって慎重案が選ばれたことになりました。
経験と判断の関係性というのはとても共感できましたが、自分もおそらくここで挑戦派を選ぶことは出来なかったでしょう。
しかし慎重派を取り続けているだけでは、いつまでも判断力は向上しないままであると痛感しました。いつまでも挑戦しなければ経験も得られず、重要な場面での判断力もあがらない。
③犬に対する考え方の変化
泰一氏は先ほども述べたように「打算」で犬係になった人であるため、事前に犬を訓練する指導や犬ゾリの指導を稚内で受けていたのですが、その時に教わったのは「カラフト犬を御すのは『力』である」という言葉でした。
しかし、南極で犬係として犬たちと過ごす時間が増えるにつれてその考え方が少し変わってきたそうです。
その考えに至るためのエピソードは数個ほど紹介されていましたが、印象的であったのは犬にきちんと愛情をもって叱りつけた際と関係ないイライラを無意識に犬にぶつけてしまいながら叱った際とで犬の反応が全く違うことに気づいたという話と、重病になってしまい基地に残ることになり死地を彷徨う犬が、仲間の犬たちが旅から帰ってくるのを見届けてから死んでいったという話(しかも、そのようなタイミングで死んだ犬が複数いたそうな)でした。
ここから泰一氏が得た考えは以下のものでした。
こうしたことを経験しているうちに、心の動き、感情などは、犬も人間も何ら変わるものではないのではないか、と思うようになってきた。
~略~
犬たちにも、人間と同じような気持ちや心の動きがあるとすれば、犬たちの能力を最もよく引き出すのは、初めに教えられたような力によるのではなく、やはり"心"だと私は信じている。
泰一氏はその後、日本に帰ってきても犬を飼うようになったらしいです。きっと泰一氏にとってのこの犬と生活していた1年は忘れられない思い出になっていたのでしょう。素敵だなと感じたシーン。
④タロジロとの再会
取り残されたカラフト犬15頭は基地に鎖で繋がれたままであったらしい。これは色々複雑な事情の上のもとでのことであり、ここでは割愛しますが、この鎖を最後にきつく締めたのは泰一氏でした。もちろん、すぐに戻ってこられると思っての行動であったのですが。
泰一氏は「第三次越冬隊にも参加したのはもちろん色々な動機があったが、やはり、つながれたままの犬たちをそのままにしておくのではなく、自分の手で弔ってやりたいという理由が大きかった。いや、本音のところはこれしかなかった」と記述されています。もちろんそのような感傷的な動機で南極観測という重大プロジェクトに参加できるわけはなかったためそんなそぶりは全く見せずに参加を決めたらしいです。
第一次越冬隊の帰還後、いつまでも最後に犬と基地をつなぐ鎖を締めた自分の行動に対して罪の意識が消えなかったらしいです。その思いを押し殺しながら必死に努力をし再び勝ち取ることのできた第三次越冬隊員の座、遂に帰ってきた1年ぶりの南極大陸。そこにはいるはずのない生き残った2匹の黒い犬。タロとジロ。犬の名前に気づき呼んでみたとき、しっぽを振りだしたらしいです。このシーンはやはり心に響くものがありました。
(最初はどの犬か実はわからなかったというのが映画とは違うところとして描かれていましたが、それは別に映画の方でいいです(笑))
忘れたくないこと
これはこの本の中に書いてある言葉ではなく、この本を読んで自分が思い出したことなのですが、ここに挙げさせていただきます。
自分が一度実際にお会いした際に、泰一氏が言っていた言葉
パイオニア(先駆者)であれ
この本の中で幾度か出てくる、先駆者、前人未到、探検などの単語を見るうちにふと思い出した言葉でありました。そういえばそんな言葉を言っていたなと。この言葉を聞いた当時は自分が中学生ぐらいの時であったと思います。
この本を通して一番驚いたことは、ただその気持ちだけで泰一氏がこんな1年以上もの大冒険をしてきたという事実です。
当時は自分がこの言葉のような人間なのかといえばむしろ真反対だし、共感できない!と思っていましたが、②で述べたように泰一氏の思う「経験と判断の関係性」の部分に共感できたので、今なら少しはこの言葉の意味を飲み込むことはできます。
でも、さすがに難しいことですよ、これは。
(ただこの気持ちを忘れたくはないな、と思ったのでここに書いた)