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井上奈々さん -予定調和を壊した遊びを-

To Be Dozen』プロジェクト
 2020年から現在まで、新型コロナウイルスの影響で島前地域の多くの人々の生活や交流に変化があったが、この変化は島前地域の魅力について深く考える一つのきっかけにもなったのではないだろうか。そして、この島前地域はこれから、さらなる変化を遂げていくことだろう。
 そんな今、「働く場所が島前である」「学ぶ場所が島前である」「人生の1ページを刻む場所が島前である」意味はなんなのか。「島前が島前である」ためには何が大切で島民は何を願うのか。そんな島前地域の人々のストーリーと想いをのせた記事を作りたい。そして、これから私たちはどこへ向かうのかを皆さんと一緒に考えたい。        
                    隠岐島前高校2年 高橋恭介

島前から離れてみる

「何より大事なのは、人生を楽しむこと。幸せを感じること、それだけです」。井上奈々さんにお話を伺って最初に頭に浮かんだのは、大女優、オードリーヘップバーンのこの言葉だった。

井上奈々(いのうえ なな)
1991年生まれ・東京都出身 / 高校卒業後 多くのアルバイトを経験/ 2018年 知夫村へ移住 / 2019年 ほうかごあそびクラブ開催スタート

このインタビューが私にとって「自分は今を楽しめているか」という深海まで届きそうなほどの問いを見つめなおすキッカケになったのは間違いない。井上さんを紹介する際に、どんな肩書きを提示すればいいのか迷う。遊びのプロ、コミュニティで愛され続ける人、それとも仕事が定まらない人か。その生き方はまさに”自由奔放”といったところだ。

そして、もう一つその中に紹介を付け足すとすれば、彼女はこれから知夫村を離れ、島前を離れる人でもあるということだろうか。この記事は島前を見つめなおすキッカケとして書いているものだが、今回はあえて島前から少し離れて語ってみることにする。

井上さんは東京の自衛隊に勤める厳しい父親と、優しい母親の間で育った。昔ながらの男尊女卑の家で、父親が出勤するときは全員でお見送り、ご飯を食べ始めるのもお風呂も絶対に父親が最初だった。また、父親に『女の子は高校も大学も行かなくていい』と言われていたので、高校の受験費なども自分のお小遣いなどから出し、「通わせてください」と頼んだという。

そんな中学時代の井上さんが興味を示していたのが「JICA青年海外協力隊」だった。学校の授業で、「JICA青年海外協力隊」と「国境なき医師団」の映像を見て、さだまさしさんの「風に立つライオン」を聴くという授業があり、とても感動したのが始まりだという。今でもそのときに配られた歌詞カードを大事に保存している井上さんの目は、とても輝いていた。そしてその頃は、面白い理科の実験で有名な「米村でんじろう先生」にも憧れており、途上国で理科の教師をやり、子供たちに「世界にはいろいろなワクワクが溢れていることを伝えたい」と思っていた。

そのため高校は都内の進学校に進学したが、父親に「大学の金は自分で出せ」と言われていたこともあり、「大学進学はいつでもできる。先生になるんだったら色々な経験をしておこう」と割り切り、高校卒業後は働きながら、中学生のときに自分で書いた、自分の”やりたいことリスト”を叶えていく生活を始めた。

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天職との出会い

高校卒業と同時に始めたのは児童館でのバイト。特に児童館のバイトでは「これが自分の天職だ」と感じていた。「当時18歳だったから、子供たちに『なな姉はどこの学校行ってたの?』とか、『どんな部活に入ってたの?』っていう質問をされて、それに答えてたら、それを全部真似しようとする子も現れて。その時に、関わる大人によって興味とか職業、夢の幅がかなり広がるんだなってことに気づいたんだよね。そのときに子供たちの世界が広がっていく手ごたえを感じて。すごく喜びを感じることができたの」。

しかし、そんな天職を見つけた井上さんが次に始めたのは調理師だった。天職だと感じていた”子供関係”の仕事から離れた職を選んだのには理由があった。「天職だからこそ戻ってこれると思ったの。私の中には天職と適職っていうのがあって、適職はお金を貰えるならやる仕事。でも、天職はお金をもらえなくてもやれる仕事。それが一緒になったら超ハッピーなんだけど、世の中はうまくできてないと思うから、適職を増やしていこうかなって思ったんだよね」と語る。

また、青年海外協力隊として海外に行くまでには衣食住のどれかをできるようにしておきたいという思いもあった。それから、調理師では”仕事の向き合い方”と”老若男女が関わることの大切さ”を、スーパーと居酒屋の店員では「地域交流の楽しさと素晴らしさ」を学んだ。これ以外にも多くの仕事を経験し、井上さんが今までにやってきた仕事の数は、インタビューの中で数えるのが追いつかないほどだった。そして、その全てが井上さんの血肉となり、今の生き方に反映されていることをお話を聞く中でしっかりと感じた。紹介しきれないことがとても勿体無く感じる。

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コミュニティの中で遊ぶ

それからは、カンボジアでのボランティア活動を経験するなどをしながら、「スポーツ鬼ごっこ」や「チャンバラ合戦-戦IKUSA-」というNPO法人が運営する競技に出会い、遊びへの関心を深めていた。そして、スポーツ鬼ごっこでは日本代表に、チャンバラ合戦-戦IKUSA-では東京副代表になるまでになった。


「そこには、子供たちと一緒に、都庁の人とか、サラリーマンとかもいて。プロボノ(各分野の専門家が、職業上持っている知識やスキルを無償提供して社会貢献するボランティア活動全般)のような形で進めていったの。みんなはその遊びをただ楽しいからやってたいのに、それが観光とか親子間交流の面で地域のためになっていくのがすごいよかった

このころから井上さんはコミュニティ中で多くの学びを深めていく。そして、その頃には「キッズコーチ検定」や「チャイルドマインダー」などの資格も取得しており、行政と民間の学童に同時に勤めるなかで地域の小学校の保護者とのつながりもできた。「それから、そこの地域の小学校でやる防災キャンプに来ないかって誘われたの。そこに誘ってくれた人とはスポーツ鬼ごっこで出会って、そのときはまだ、会うのが二回目だったんだけど、楽しそうだったからその防災キャンプに参加したんだよ」。

それは、『災害時に、父親同士が、互いの顔を知らないのに体育館運営することも、子供がはじめての場所で、顔も知らない地域の人と寝泊まりすることも難しいだろう』という理由から、小学校の保護者を中心に開催されたものだった。「それから、そこの地域の夏祭りに参加させてもらったり、スポーツ鬼ごっこを教えたりっていう交流が始まって、二回目の防災キャンプでは実行委員もやらせてもらうことになったの。

イベントを開催するときは、地域に住んでる大学生を呼んできたり、私がSNSで『最近給食 食べてないなー』って呟いたら、保護者さんがその小学校の校長先生に掛け合ってくれて、学校で給食を食べた上に、子供たちの授業まで参観させてもらったりして(笑)。東京だよ?すごい地域だった」と振り返る。井上さんが知夫村へ移ることになり、その地域を離れる際には”奈々ちゃんお別れ会”が開催され、保護者が送別ムービを作成するなど、井上さんは地域に愛される存在になっていた。その後、その地域で知り合った家族が四世帯も知夫村に遊びにきてくれたそうだ。

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ほうかごあそびクラブ

井上さんは最初から知夫村に来ようと思っていたわけではない。東京での仕事の最中にJICAの青少年活動の採用試験を受けた際に、試験官に「地域おこし協力隊」を勧められたのが最初になる。

「JICAに落ちたときに、JICAの日本版って言われて地域おこし協力隊を紹介されたの。そのときは、『今までの経験のまとめをしたい』って考えていたのと、中学生のときのやりたいことリストに『離島で先生をしたい』って書いてあったことがきっかけで、離島に行くことを決めたの。それで、総務省のホームページで”離島 子育て支援”で検索したら知夫しか出てこなかったんだよね(笑)。で、知夫にくることにしたの」とキッカケを教えてくれた。

そして、2018年知夫村に移住。当初は学童保育の立ち上げに関わる予定になっていたが、井上さんは安易な学童の設立を危惧していた。「学童って実は子供ファーストじゃないのね。楽しいかもしれないけど、子供の意思で選んではないから。知夫ではまだ作り始める段階だったから、このまま『子供ファーストにならないのはいやだ』と思って、居場所づくりにしたの」。

それが「ほうかごあそびクラブ」であり、井上さんのこれまでの”一旦の集大成”だった。ほうかごあそびクラブでは、「鬼ごっこ」などの体を動かす遊びから、「SDプリンター」や「プラ板」を使った工作、地域の方に「竹とんぼ」の作り方を教えてもらうなど、多種多様な遊びを子供たちに提供した。

ほうかごあそびクラブの様子

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予定調和を壊す

ほうかごあそびクラブで、井上さんが一つ意識していたことがある。それは、”予定調和を壊すこと”だ。「子供の人数が少なかったのと家までの距離が遠いのもあって、”放課後に友達と遊ぶ”という概念が欠如してたの。だから、鬼ごっこをやるときとかも、何十種類もレパートリーがあるのにも関わらず、知夫の子がやるのはオーソドックスなやつだけで。だから最初は、いろいろな遊び方を提示するところから始めたの。

本来、”遊び”は子供たちの間で継承されていくもので、勝手にルールが変わっていくものだと思うんだけどね。例えば、知夫の子は、運動が苦手な子もみんなテニス部に入部するけど、今は一人でもできる部活もいっぱいあるはずで。でも、それを子供たちに言ったら、『そんなの考えてもみなかった』って言うのね。そのときに、選択肢を知らないということは悲しいことだなと思ったの」。

そう語る井上さんは、その日にクラブに『来るか』、『来ないか』も子供たちが自分自身で決める形にし、それを子供たち自身が親に交渉することで、「自己決定」の回数を増やすことを心がけた。「島の文化には予定調和がまだまだ染み付いていると思っていて、これは地方とかで言われがちなんだけど、『どうせだめ』とか『今までやったことがなかったから』とか

知夫村の開発センターで展示してるものも含めて、部屋にあったもの全部を使って、謎解きゲームやったことがあったんだけど、そのときにある子が、『奈々ちゃん、これ勝手に使っていいの?』って言ってきて。『ちゃんと許可とったの?』って。そのときはびっくりした。普通は触りたいと思う子が大半だと思うんだけど、怒られちゃうのが心配だったんだと思う。あそびクラブも最初は、『一回家に帰らせてから通わせる』って言われてたり。片道40分もかかるのにだよ?私は、それは大人の勝手な都合だと思うの」。それは井上さんの家庭環境への反動的な気持ちもあったかもしれない。

今回のインタビューにあたり、あそびクラブにも何度か参加させていただいたが、そんな考えを持つ井上さんは、保護者さん方にとても信頼されているように見えた。しかしながら、2021年8月。ほうかごあそびクラブの活動は、突如にして、幕を下ろすことになった。それは、行政からの『需要がない』という声だった。生徒の半分以上が参加をしてくれている活動であったのにも関わらず。
          
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地域活動のハードルがとてつもなく低い場所

井上さんとしてはとても悔しい選択ではあったが、「大事にしたいと思うものには築きやすい場所と築きにくい場所がある」と割り切った。しかし、それと同時に、「地域活動のハードルがとてつもなく低い場所だった」と振り返る。

「別に他の場所でできないわけではないのだけど、本当にハードルが低い。自分が何かを『やりたい』と口に出したときに、地域の人たちはすごく親身になって協力してくれて。それに慣れちゃったから、逆に『え?協力してしてくれないの?』のみたいなスタンスになっちゃったよね(笑)。それは本当にすごいことだと思う」。

井上さんの今回の話、「島前から少し離れた話」から、この地域の「在り方」、「守り抜くべき文化」と「変えていくべき文化」をまた新たな視点で見つめ直すことができた気がする。人は様々な環境との相互作用により変化していくが、環境を変えていくのも我々だ

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