終末絵図(智也の場合)2

 自宅アパートの玄関にたどり着いた時、智也ともやは血の気の引く思いがした。ドアが何かでこじ開けられたかのように変形していたのである。
優希ゆき!」
智也はそう叫び、部屋の中へと足を踏み入れた。然程荒れてはいなかったが、優希の姿はなく、彼女の荷物も全て、なくなっていた。
「なんだ。泥棒か?」
ふと、智也が机の上に目を向けると、今朝、自分が書いた置手紙のかたわらに真新しい便箋びんせんと小さな紙袋があった。智也は持っていたフラペチーノの袋を雑に床に置くと、便箋の文字を目で追い始めた。
“私たちは終末を家族で過ごしたい。優希が家族よりも君を選んだのは分かっている。しかし、それでも私は優希を手放したくないのだ。君に罪は無い。だがこれ以上優希に関わってくれるな。ドアを壊してしまってすまない。修理代と手切れ金を置いていく。今日から君と優希は他人だ”
 紙袋には智也が見たこともないような厚さの札束と、優希の父親である美濃部源一郎みのべげんいちろうの名刺が入っていた。
「優希」
智也は家を空けていたことを激しく後悔しながら家を飛び出した。車に乗り、海沿いへ。大きな庭のある美濃部邸に着いたのは正午を少し回った頃であった。急いで手切れ金とやらの入った紙袋を持って大きな屋敷のインターホンを鳴らした。三回、四回。返答の聞こえる気配はなかった。それでも彼は諦めきれず、インターホンを鳴らし続けていた。
「東条君だね」
ようやく返事があった。
「はい。優希さんと会わせてください」
「手切れ金は渡した筈だよ」
「僕は受け取ったつもりはありません」
智也はその場に紙袋を投げ捨てた。
「今、こんな世界になってしまって、私は家族でゆっくりと過ごしたいんだ。今、優希と君を一緒にしておくと、優希はもはや私たちの元には戻ってこなくなってしまうだろう」
「だからって、強引すぎます」
智也は叫んだ。
「もし、いずれ、世界がどうなるのか詳しく分かって、優希の心が落ち着いたら、もう一度くらいは君に会わせてもいいと思ってるんだ。だから、今は、私たち家族のことに関わってくれるな。君も一旦、優希のことは忘れて家族と過ごしなさい。さあ、もう話すことはない。引き取ってくれ」
声が途切れると、もう智也がいくらインターホンを押しても返答はなかった。智也は玄関を離れ、大きな屋敷の窓に目を向けた。何処かから優希の姿が見えないものかと目を凝らしてみたものの、窓までは遠く、またカーテンが引かれているようで何も分からなかった。智也は後ろ髪を引かれるような心地で車に乗るとエンジンをかけた。スマートフォンを取り出し、優希にメッセージを送った。
“大丈夫? 優希の家まで来たんだけど、結局、会わせてもらえなかったよ。また明日、来ようと思う”
しばらくの間、メッセージの画面を開いていたものの、既読の表示がつくことはなかった。

 家に戻ると九月の温気うんきに放置されていたフラペチーノが泥のようになっていた。智也はそこに、優希と並んでそれを味わっている自分の幻を見た気がした。彼女と過ごすはずだった時間が膨大な無として智也の前に広がり、その中を智也は呆然ぼうぜんとしたまま、優希に送ったメッセージを眺めながら過ごしていた。まだ、返信はなかった。昨夜、自分のことを守ると言いながらも泣きじゃくっていた優希のことが思い出され、そんな彼女が今、どう過ごしているのかと考えると、終末の不安が上書きされるようであった。空虚な時間を前に心がむしばまれてゆくことを感じた智也は、たまらず、部屋を飛び出した。
 あてもなく街を歩いていた彼はとある喫茶店の前で足を止めた。そこは智也が優希と出会う前から時折訪れていた場所であり、優希と交際を始めるきっかけになった場所でもあった。入り口の看板には“OPEN”という札が掛かっていた。小さな窓から覗くと、店内に人は居ないようであった。彼は恐る恐る、ドアを開け、店内に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥で新聞を読んでいた店主、鎧塚はいつもと変わらぬ様子で智也に声をかけた。
「お久しぶりです。今、やってるんですか?」
「ええ。どうぞおかけください」
あくまでも普段通りの調子で鎧塚は智也を呼び込んだ。カウンターに座った智也がアイス珈琲を注文すると店主はサイフォンに火を灯した。
「それにしても、大変なことになりましたね」
鎧塚がサイフォンの湯が沸騰するのを見守りながらこぼした。
「ええ。全く。色んなことが起こり過ぎて、混乱してます」
智也は頭を抱えながらため息をついた。
「まあ、落ち着いて。一服、どうぞ」
そう言って鎧塚が智也に勧めたのは煙草の形をしたラムネ菓子であった。
「おや、ありがとうございます。懐かしいですね、これ。小さい頃、よく食べてました」
智也はラムネを受け取ると煙草と同じ要領でそれをくわえた。
「実はね。先月辺りから煙草、止めたんですよ。家内が“長生きできないわよ”ってやかましいものですから。でも、こんな世の中になってしまっては、長生きも何もあったものじゃありませんね」
「ええ、本当に」
智也がラムネをかみ砕いたと同時に、珈琲の入ったグラスが置かれた。
「実は今朝まで、優希と一緒に居たんです。でも、優希のお父さんに連れて行かれまして。家族で過ごしたいとかなんとか。家まで訪ねていったんですけど、結局、会えませんでした。これから、どうしたものか」
二人の仲を良く知る鎧塚はラムネ菓子を食べながら何かを考えているようであった。
「なるほど。私も人の親ですから、美濃部さんのお父様の気持ちも、分からないわけではありませんが、東条さんの立場になってみれば、寂しいでしょうね」
誰も居ない店内に有線から流れてくるジャズと二人のうなる声が響いていた。
「あ」
鎧塚が突然、何か打開策でも思いついたような表情で人差し指を立てた。期待の眼差しで智也が見つめる中、彼は冷蔵庫から箱を取り出した。
「東条さん、シュークリーム食べません?」
「え?」

「まあ、今後数日はしばらく様子を見てもいいと思いますよ」
二人でシュークリームを食べていると、鎧塚がそう提案した。
「そうですかね」
「ええ。今、急激に世の中が変わって、皆、動転しています。だからこそ、一時的に不安になったりするものですよ。美濃部さんのお父様もきっとそうでしょう。だからこそ、なんとしてでも娘を連れ戻したかった。でも、少しずつ必要のない不安が取れていけば、元通りとまではいえないでしょうけれど、平穏が戻ってくるのではないでしょうかね。今後のことはその時に考えてもよいのではないでしょうか」
智也は冷め始めた珈琲をひと口飲んでスマートフォンの通知を確認した。優希からの返信はまだ届いていなかった。
「平穏が早く戻ってくるといいのですが」
「そうですね。まあ、人類とは意外としぶといもの、大丈夫でしょう」
鎧塚はシュークリームの最後のひと口を口へ放り込んだ。智也は行く当てのない外に出る気にはなれず、二杯目の珈琲を注文した。店内を見渡しているとかつて優希と初めて知り合った頃のことが思い出された。災難が続いていた常連の優希を智也が半ばヤケになって笑わせようとしたところから交際が始まったのであった。そんな過去の自分は世界の終末を生きることになるなど想像すらしていなかった。無垢むくな過去が愛おしかった。
「これから、どうなっていくんでしょうね」
智也は再び運ばれてきた珈琲を混ぜ、そこにミルクを落とした。白と黒、二つの色が完全に混ざり合うことなく流れに乗ってマーブル模様を作っていた。鎧塚は窓の外を眺めてしばらく何かを考えていた。
「きっと、濃淡のうたんがはっきりするでしょうね」
「濃淡?」
智也が聞き返すと、鎧塚は洗い物をしていた手を止めた。
「清いところは清く。みにくいところは醜く。よりはっきりしていくと思いますよ」
安堵と不安が同時に智也の心に宿った。
「終末が近づいていると知り、ヤケを起こす者もあるでしょう。悪事を働く者もあるでしょう。そういう者たちは同じような者同士で集まり、部分的に世界は醜くなるでしょうね。これまで聖人と呼ばれた人が非道の人物になることも不思議ではありません」
智也にはそんな未来が、いとも簡単に予測できた。手元から目を上げると、鎧塚と目が合った。
「しかし、人間はそればかりではない筈です。清い者は終末を前にしても尚清く、いや、一層輝きを増すものだと、私は信じています。そういう者はそういう者たちと惹かれ合い、世界をより美しく彩るでしょうね」
そんな世界があればよいと、智也は半ば他人事のようにして聞いていた。
「それにしても、不思議なものですねえ」
鎧塚はシュークリームを乗せていた皿を布巾で拭いながら呟いた。
「これから世界が良くなるのか悪くなるのか。本当のところは分かりません。そう。分からない筈なのです。なのに私たちは悪い方へ向かう予想はたてられても、良い方へ向かう予想はたてづらい。可能性は半分ずつだと思うのですがね」
そんな鎧塚の疑問が、智也には新鮮だった。自分の思考習慣をかえりみても、いつでも未来予想図には不安や恐怖の標識が蛍光色に主張し、自分を疲弊させていた。それに比べ、希望や安寧あんねいの温かさを自分はいつでも遠ざけて考えていた。
「確かに、不思議ですね。可能性は、半分。確かにその筈なのに」
「でしょう?」
鎧塚は笑いかけた。
「今の状況もそうです。きっと大丈夫だと考えてもいいでしょう。いつか終わりが来るなんて、誰の人生でも同じです。なんとかなりますよ」
智也は半分の可能性を信じてみたくなった。

 その日、智也は喫茶店が閉店するまで店内に残っていた。夕暮れになった頃、彼は店を出た。スマートフォンを見ても、まだ優希からの返信は無かった。半分の可能性を信じようと思った彼にも、不安は残っていた。智也は帰り道にコンビニでアルコールを買い込み、自宅で晩酌を始めた。半分の可能性は酒で不安を紛らわせることでもなかなか信じられなかった。“明日、何かが好転している”自己暗示のようにそう言い聞かせながら、彼はうんと早い時間に眠りに落ちた。

 翌日、智也が目を覚ましたのは正午に近かった。スマートフォンを見ても優希からのメッセージはなく、その代わりに母親から大量のメッセージが届いていた。
“無事? 何してるの?”
“こっちに帰ってくるわよね”
“早く返事をちょうだい。心配してるの”
“私たち家族でしょ”
“お父さんと彩花も心配してるのよ”
“私たちのことがどうでもいいっていうの?”
“早く返事をして。元気なのよね”
怒涛の勢いで紡がれている言葉に重圧を感じ、彼はため息をつきながらスマートフォンの画面を閉じた。思い返してみれば、終末が発表されてから、自身の心は常に優希に向いていた。家族よりも優希が大事だったのかと、今更ながら自分の本質に気がついたような気がした。
 別段、空腹でもなかったものの、冷蔵庫にあった適当なもので昼食を作り、食べ終えてしまえば、もう、すべきことはなかった。優希と過ごす筈だったささやかな時間は、ひとりになってしまえばあまりにも広大であった。布団に横になり、母親からのメッセージになんと返信しようかということや、連絡がつかなくなっている優希の身の上を考えているうちに、全てのことを投げ出したくなった。何処かへ出かけ、誰かと話す方が精神衛生に良いとは分かっていたが、今は何をするにもただ億劫であり、抱えている不安とともに消えてしまいたいような、そんな気がした。

 知らぬ間に眠り込んでいた智也は夕暮れを過ぎてから目を覚ました。母親からのメッセージは変わらぬ勢いで届いていた。
“こっちは、無事。安心して。連絡返さなくてごめん。そっちに帰るかどうかはまだ分からない”
智也は支度を済ませると、美濃部邸へと向かった。優希と会えなくとも、何かが変わるかもという半分の可能性にけたのであった。しかし、無情にもその期待は裏切られた。もはや返答はひと言も帰って来ず、彼は肩を落として狭いアパートに帰ってきたのであった。
“今日も優希の家に行ったよ。ダメだったけどね。家にいるんだろ?”
返信が来ないと予感しながらも何らかの行動を起こさずにはいられなかった。
 次の日も、その次の日も、彼は美濃部邸を訪れたものの、優希はおろか、彼女の父親にすら会えなかった。自由な筈の時間が恐ろしく長い苦痛に思え、終末のその日が来るのを心待ちにすらしていた。もちろん、時折あまりにも眩い笑顔の栗原がいる店や鎧塚の喫茶店に行き、だれかと交流する時間は彼の心をうるおした。しかし、最も重要なひとしずくだけが、智也には足りなかった。いっそ実家に帰ろうかという考えが頭をよぎったものの、優希に会えるかもしれないという可能性を考えると、できなかった。


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