波を聞く者

 光の届かぬ海底に横たわる者があった。彼にはいつから自分がそこでそうしているのか分からなかった。昨日からか、あるいは数千年も過去か。海底の砂は滑らかで、居心地は悪くなかった。否、そうでない。彼はここ以外を知らなかったのだ。
「どうして、僕はここに居る?」
つぶやいた言葉は水圧に潰され、何処へ届くこともなかった。暗い深海に、彼は己の存在をも疑い始めていた。
「僕は居るのか? ここに」
腕を持ち上げ、それを見ようとしたが、周囲の闇にまれ、分からなかった。彼は深い息をつき、目を閉じた。景色は変わらなかった。

「聞こえるか。私の声が聞こえるか」

そう声が聞こえた気がして、彼は再び目を開けた。

「こちらだ。海底に沈む君。私の声を聞け」

遥か海面から確かに聞こえた。彼は身体を起し、声の方へ耳を澄ませた。

「来い。待っているのだ、君を。君の居るべき場所を、私は知っている。さあ、こちらへ来い」

その声は、初めて耳にするものであったが、どこか懐かしかった。声に引かれ、とうとう立ちあがろうとした彼の腕をつかむ者があった。タコだ。
何処どこへ行く」
抑揚よくようのない、老婆のような声だった。
「今、声が聞こえて。僕を待っている人がいるんです。そこへ、海面の外へ行かなければいけない気がして」
軟体動物はあからさまなため息をついた。
「そんなのは空耳さ。まだ若いお前に話しても分からんだろうが、そんな空耳に心を惑わされているようじゃ一人前とは言えん。さ、やるべきことをやるんだ」
「やるべきことって?」
「待つのさ。その身ちるまでな。ここはそういう場所だ」
彼にはその言葉が、至極もっとものように聞こえた。彼は諦め、身体を横たえた。
「そうだ。それでいい。自分で身の程を知って、朽ちてゆくこと、これが一人前の生き方だ。よいか。空耳には決して惑わされてはいかんぞ」
タコは満足げに去っていった。
 目を閉じているのか、開けているのかも分からない闇に、波音に混じって声は幾度も響いてきた。

「水底に朽ちるのが君の運命ではない」
「早く、こちらへ」
「私の声とともに、君の中に渦巻く波を聞け。全ては君の願うままだ」
「さあ、こちらだ、来い。先ずは身体を浮上させよ。一歩を踏みだせ」

彼の存在のずいを誘引するような声を、彼は必死に断ち切ろうとした。
「一人前にならないと。全部、全部空耳だ。全部、空耳なんだ。空耳だ!」
彼は一層身体を固くし、そこに留まっていた。
 どれだけの時間、そうしていただろう。声は一向に止まなかった。そればかりか、度重なる声を聞くたびに、彼の心にその反響が増幅されえながら蓄積していった。
「行かなきゃいけない気がする。どうしてだろう。いや、空耳だ。空耳だ!」
彼はとうとう耳をふさいだ。視覚も聴覚も、真なる闇に閉ざされた。しかし、それでも! 彼の心に反響する声が内面から語りかけ続けた。

「君が自分の運命を認めるまで、私は何度でも語りかけよう」
「浮け。全ては君の願うままになると知れ」
「君の魂が向かうべき場所へ導こう」

「僕の運命。僕の願い」
声は彼をふるい立たせるように響いた。

「願うままに」
「先ずは浮け!」

 不随意ふずいいに、彼は海底を蹴り、水中へと泳ぎだしていた。右も左も分からない海中を、彼は声を頼りにひたすらに泳ぎ続けた。

「その一歩は偉大だ」
「さあ、こちらへ。君自身が正論とされてきた言葉の例外となるのだ」
「どんどん浮上せよ。今まで君を縛り付けてきた論理を破綻はたんさせよ」

 海面に向けて泳ぎだすと、声は幾らか明瞭な響きになった。彼はその声と、自らの内に反響する声とが同調していることを感じていた。浮上に従って少しずつ、周囲が明るくなり始めた。彼はどんどんと浮上した。願うままに。
「おい。なんだお前は」
唐突に語りかける声を聞いて、彼が振り返ると、彼を丸のみにできる程大きなあごを持った深海魚の姿があった。
「何処へ行く?」
「水面まで」
恐れながら彼がそう言うと、深海魚はその大きな口を一層大きくして笑った。
「なるほどなるほど。この広い海の中にも幾人かはそういう者もある。さては、声を聞いたんだろう」
電球のような目が彼をとらえた。
「はい」
「止せ止せ。気持ちは分かる。若いうちにはな。誰にでも一度はあるものだ。あの声に導かれて浮上すれば、何者かになれると。だが止せ。そんなことをしてみたって、何者にもなれはせんのだ」
「違います。別に僕は何者かになりたいわけじゃないんです。ただ、僕を呼ぶ声があるから」
深海魚は相変わらず、かすかな光を反射させながら同情にも似た声色で語りかけた。
「お前の言うことも分からんではない。良いな。それが若さか。そんなのはみんな妄想のようなもの。病気だ。仮にそうでないとして、お前の言う声が本当にお前を呼んでいたとしてだ。何故お前がそれに応えなければならない? そんな義理はないだろう。それにな、お前が水面まで行ってなんになる? お前ひとりに何ができる? なんにもできぬだろう? なにかができるのは常に限られたごく一部の者だけだ。お前がそれか? 違うな。それならそれらしく、海底に住むのが賢いやり方だとは思わんか?」
諭すような深海魚の言葉を聞いているうちに、彼は自分の行動がいかにも馬鹿馬鹿しく、無分別であったように思われ始めた。しかし、そんな彼を、声は逃さなかった。

「それはその者の理屈だ。君がそれに従う必要はない」
「君は、彼ではない」
「もっとだ。もっと浮上せよ。君のあるべき場所へ帰るのだ」

しばらく深海魚の両眼に黙って捉えられていた彼は、ようやく決意を固めた。
「僕それでも行きます。さようなら」
光の差す方へ浮上してゆく彼を、深海魚はもはや止めなかった。ただ呆れたように首を振り闇のような深さへ潜っていった。

「そうだ。君の運命は君が決めるのだ」
「私は君の運命を知っている」
「もっと浮上せよ。君を待つ者のために」

 彼が浮上してゆくにしたがって、だんだんと周囲の光景が鮮やかに分かるようになっていた。水の色は深いエメラルドのようで、そこには小さな生物が遊んでいた。遠くで小魚の群れを狙って大きな魚が恐ろしい程の速度で泳いでいた。
「すごい。はじめてみる景色だ」
感嘆の声を漏らすとそれに応えるようにまた声が聞こえた。

「これが世界の一端だ。深海ばかりが世界ではない」
「一歩を踏みだしさえすれば、世界は大きく変わる。それは点在する例外のためだ」
「幻想のテンプレートで構築された現実はひとつの例外で粉砕される」
「さあ、もっと浮け。その先に君の運命があるのだ」

 彼は声の方へ、また泳ぎだした。願うままに。水面から降る太陽光のために、景色は随分と明るくなっていた。鮮やかな色の熱帯魚や名も知らぬ長い刀のような魚が泳いでいた。
 唐突に彼の目の前に現れた者があった。ウミガメだ。
「見ない顔だね。何処から来た?」
悠久の時を生きた者のようにしわがれた、重みのある声であった。
「底から来ました」
「ほう。わざわざ海底から。何をしに、何処へ行く?」
彼は暫時ためらったものの、なるべくそっけない様子で答えた。
「水面へ行くんです」
「水面……」
彼は目を見張るウミガメを後にして泳ぎだそうとした。
「待ってくれ。君は聞いたのか? 声を」
思わぬ言葉に、彼は振り返った。
「聞いたのか? 浮上せよというあの声を」
ウミガメは彼の目と鼻の先まで詰め寄った。その圧力に彼は思わずのけ反った。
「はい」
「そうか。そうか。よくぞ来た。海底の暗がりから自力で脱し、ここまで来るには並大抵のことではなかったろう? 度重なる説得もあっただろうに、それにも屈せず、よくぞ来た」
ウミガメは必要以上にヒレをパタパタと動かしながら感動していた。再びタコや深海魚のように深海に戻るように説得されると思っていた彼には、それは思いがけないことであった。
「あの声の呼ぶ方へ、行ってみなさい。君の願うままにね」
「何か、知ってるんですか。あの声について」
「ああ。知っているよ。私もうんと昔に君と同じことをしたからね」
ウミガメは懐かしむような表情で言った。
「あの声はなんなのです? それが呼ぶ方には何があるんです?」
今度は彼の方がウミガメに詰め寄りながら質問を畳みかけた。ウミガメはきゅうするでもなく、穏やかな表情のままであった。
「それあ、君。確かめてみたまえ。その目でね。さあ、行きなさい。願うままに、浮上してゆきなさい」

 水面から降る光が海中の塵に反射してオーロラのようなうねりを作っていた。疲労の蓄積した身体に構わず、彼は泳ぎ続けていた。

「もう水面はすぐそこだ。浮上し、海面を穿うがて」
「ねえ。貴方は誰なの」
彼は初めて声に向かって問いかけた。
「私は、そう。言うなれば世界の意志だ」
壮大なスケールのあまり、彼にはよく分からなかった。
「世界にあるがままの状態を保とうとする意志」
「どうしてそんなものが僕に聞こえたの?」
「皆に等しく聞こえているのだ。しかし皆、それを聞こえないふりをしている。そして次第に本当に聞こえなくなってしまう。自分は導かれる存在ではないと確信して。私は何処にでもいるのだ。深海の砂の中にも、海流の狭間にも、降る日の光にも。それを聞くのは難しいことではない。さあ。動きを止めて耳を澄ませてみよ」
彼は言われるがままにして動きを止めた。目を閉じていると水流の音や海面からの波の音、辺りを泳ぎ回る生き物の音が鮮明に耳に入ってきた。
「今、君が聞いているのは全て私の声だ。そして君が聞いてきた説得の言葉やねぎらいの言葉も皆、私の言葉だ。言葉とは、即ち波。打ち消し合い、干渉しあい、ひとりの中に自身と同期する波が生まれるのだ。さざ波は重ね合わせの大波となり、ついにはその者をそこに留めておかない。それが私だ。私のこの声は君の精神に同期した波として君に届いている。つまり、私は君から生れたともいえる。私は、君だ」
 彼は目を開けた。海面が眩しい程にきらめき、それが自身を導いていると確信された。
「さあ。もうガイドは必要ない。水面に近づき、私と君の境界は揺らぎ始めた。さあ、行け。願うままに、浮上せよ」
彼は一直線に浮上した。もはや声は聞こえないものの、水が、波が、気泡の動く音が、太陽光が、彼を内包する世界の全てが、彼に浮上せよと呼びかけているのが分かった。それらは重なり合いながら、説得や自己嫌悪、否定、矮小わいしょう化の波をことごとく打ち消し、巨大な歓喜の波動となって彼の中に振動していた。
 世界が、彼に願うままに生きることを求めていた。歓喜と共に彼は銃弾のような速度で上昇し、ついには海面を穿った。

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