終末絵図(誠司の場合)下
「らっしゃっせー」
明らかにやる気のない声が誠司たちを迎えた。終末の深夜にもかかわらず、危険人物も無く、平穏に保たれているコンビニが、誠司には少し、妙にすら思われた。雑誌コーナーには一か月以上も以前の雑誌が並び、防災グッズの並んでいる棚には何もなかった。誠司たちはコーラとジャスミンティーとカフェオレを買い、アヒルグミを三つ買うとレジへと向かった。
「らっしゃっせー。東条さん、今日はお友達と一緒っすか」
武藤というネームプレートの店員が商品をスキャンしながら親しげに彩花に話しかけていた。
「はい。学校の友達と」
「グループで深夜徘徊なんてワルっすね。あ、レジ袋つけますよね。千百六十四円っす。今日も海っすか」
武藤は慣れた手つきで形よくレジ袋に商品を詰めていた。
「はい」
「あれ?」
武藤がふと手を止めて彩花の顔を見た。
「なんかありました? 顔、強張ってますけど」
「いえ、その。ちょっと汚いもの見ちゃって」
「汚いもの? ゲロとかっすか」
「まあ、そんなものです」
侑依が噴き出した。
「ドンマイっすねー。お釣りっす」
彩花はお釣りを受け取りながら小さくため息をついた。そんな様子を見た武藤がおもむろにポケットからスマートフォンを取り出した。
「そういや、誰におすすめするか迷ってたんすけど、最近すげーいい曲見つけたんでドンマイな東条さんにおすすめしますよ。合成音声の音楽とかって聞きます?」
「え、そうですね。時々」
彩花はそう返事をしながら侑依の方に目線を向けていた。
「すげーいい曲見つけたんすよ。このWってアーティストのBark Outって曲」
そう言って武藤はスマホの画面を見せた。彩花が衝撃の表情で再び侑依の方を向くと、彼女は黙ったまま人差し指を唇にあてがった。
「これ、終末発表の直後にリリースされてるんですけど、なんていうか、すごいんすよ。なんか怒りとか破壊みたいなイメージで。俺、よく合成音声の音楽聞くんすけど、こんなにヤベエ曲は初めてっす。しかも、これ作ってるの高校生らしいんすよ。いるんすね、世の中には天才ってやつが」
武藤はあくまでもダウナーな雰囲気を崩すことなく、静かな熱意を湛えていた。
「まあ、良かったら聞いてみてください。誰かと共有したくて」
そう言いながら武藤は商品の詰まった袋を彩花に渡した。
「すごいね、ニッシー。武藤さん、あんなに褒めてたよ」
死神の公園を大きく迂回して海へと歩きながら彩花が晴れやかな表情で侑依に語りかけた。
「え、さっきあの店員さんが言ってたのって、西沢の曲なの? すごいね」
二人に注目された侑依は少し照れくさそうに頬を掻いた。
「こんな近くに聞いてくれてる人がいるなんて、ボクも驚いたよ」
「武藤さん、ニッシーのこと天才って言ってたね」
スキップをしながら彩花は侑依が褒められたことを自分のことのように喜んでいた。
「ボクは別に天才じゃない。そもそも才能なんて言葉自体あてにしていないからね。ただ、好きなことを好きなようにやっただけさ。でも、ボクの音楽が誰かに届いてよかった」
誠司にはポケットに手を入れたままそう呟く侑依の姿が、やはり、天才的アーティストという称号に相応しいと思えた。
秋の虫が鳴く、曲がりくねった道を三人は海の方へ。高い坂から見晴らすと、夜の海が闇のように染まって見えた。
「夜の海って、なんだか少し怖いような気もするね」
誠司はふいに自らが小惑星落下による終末を前にした地球に住んでいるのだということを思いだした。インクが滲みでるように不安が彼の心を塗りつぶしていった。
「普段、ボクたちは昼間の海しか見ないからね。見慣れていないというだけさ。慣れていないことに恐怖を感じるのは当然だよ。大丈夫。世界はまだこのまま在るさ」
アーティストは何処までも他人の心情を察知することに長けているようであった。
誠司たちは坂を下りきり、踏切を渡ると堤防を抜け、浜へと出た。波打ち際まで歩くと彩花が声をあげた。
「ニッシー、清水君。ほら、光ってるでしょ」
誠司が彩花の指す方を見ると、寄せては返す波間に青白く光っている粒が見えた。周囲に人工的な光源がないため、それはより鮮明に幻想的な魅了を辺りに振りまいていた。
「すごい」
誠司は感嘆を漏らしたきり、声を出すことなく波間に見入っていた。暗闇の中に光が漂う様子は、彼に宇宙を想起させた。終末が訪れているにもかかわらず、ありのままの自然は愛おしい程に美しかった。
「東条。すごいよ。こんな光景、見たこともない。ありがとう。教えてくれて」
誠司が彩花の方を見ると、彼女は目を閉じ、大きく手を広げたまま、夜光虫の海と向き合っていた。
「東条、何してるの」
誠司が問いかけても、しばらく彩花は身じろぎひとつせず黙っていた。
「声を、聞いてるの」
「声? 世界の声ってやつ?」
「そう」
耳を澄ませても、打ち寄せる波の音ばかりで誰の声も聞こえなかった。
「なあ、西沢。声、聞こえる? なんのことかな?」
「さあ」
感受性の研ぎ澄まされたアーティストにも今の彩花の心は分からないようであった。
「彩花はしばらく動きそうにないし、座ろうか」
侑依に促され、誠司は手ごろな流木を見つけると、彼女と並んで腰かけた。暗闇の中、吹き付ける肌寒い風が潮の香りを運び、波間では依然小さな青白い粒が発光しながら漂っていた。
「ねえ。西沢。君にはこの夜光虫の海がどう見えるの」
誠司はアーティストの視界にこの絶景がどう見えているのか気になっていた。
「君が見ている景色と変わらないさ。幻想的で、美しい」
侑依は目線を波打ち際に据えたまま答えた。
「そうなの? 俺はてっきり、アーティストには世界がもっと違って見えるんだろうと思っていたけど」
「見る人によって世界が変わったりはしない。世界は常に存在しているだけさ。もっとも、そこから何を感じるかは、個人の感性によるけれどね。別にボクが作曲をするからといって特別なことは何もないさ。在るがままの世界を、ボクはただ在るように曲にするだけ」
「やっぱりすごいや。西沢は」
誠司は星々の瞬く空へ向けて、何かを投げ出すようにして言葉を放った。
「ボクはただ、それをせずにはいられないからそうするだけ。さっきも言ったように何も特別なことではないんだよ」
そう微笑む侑依の頬が月明りに淡く照らしだされ、いつか資料集で見たアテネの彫像のように見えた。
「俺にも、そんなものがあったら、少しは不安じゃなくなるのにな。俺には、何もない。世界の終わりを前にして、どうしていいか分からないんだ」
今、誠司は終末が発表された事実を恨んでいた。いっそのこと何も知らされずに終わりを迎えられたならどれだけ幸せだったであろうかと。
「清水君に何もないなんて、ボクはそんな風には思わないよ。社会が作った規則の枷を外れたボクたちに強制のもとですべきことなんて何もない。あるのは自身の衝動だけ。清水君は清水君であればいいんだ。儚くも完全な自由を得たこの世界で、君はひとつの生命として生きるんだ。ねえ、君は何が好きだい? どんなことに心が動く?」
「俺の、好きなもの……」
自己の内面を見渡してみても、それらしい答えは何も見つからなかった。ただ、終末に対する恐怖と不安がタールのように沈殿していた。
「よく、分からないや。それを見つけないとね」
誠司は好きなものすら答えられない己の空虚さに落胆していた。
「大丈夫だよ。清水君。既に答えは君の中にある筈さ。きっと、君が気にも留めないようなことこそ、君にとって大切なものだよ」
「二人とも、おまたせ」
何かの声を聞いていたという彩花が二人のもとに駆け寄ってきた。
「どうだった? 声とやらは。どんなことを言っていたんだい」
侑依が立ちあがるのにつられ、誠司も腰を上げた。
「あんまり言ってることは変わらないかな。世界が絶対に滅んじゃうとか、このまま世界は混乱していくだろうとか。まったく、人類をなめてるよね」
彩花は随分とあっさり言ってのけたものの、既に分かっていた筈の結末に超自然の認印が押されたようで、誠司には恐ろしかった。
「じゃあ、彩花も戻ってきたことだし、皆で乾杯といこうか」
侑依がコンビニの袋から取り出したコーラとカフェオレを銘々に配った。
「じゃあ、乾杯」
彩花の掛け声に、三人がペットボトルで乾杯した。誠司は胸に一瞬間、晴れ間が見えたことを自覚した。
「ニッシーと清水君は何話してたの?」
「今後について、かな」
侑依がジャスミンティーのキャップを閉めながら答えた。
「今後って、清水君の? 清水君はどうするの?」
「それが、さっきまで分からなかったんだ。自分が何を好きなのかさえね。でも、今、少し分かった気がするよ」
「興味深いね。教えてよ」
侑依と彩花が誠司の回答を期待の眼差しで促していた。
「俺、多分、誰かといるのが好きなんだ。今日もこうやって東条や西沢と冒険してて、何度も終末の恐怖を忘れられた。それだけじゃない。北塚と話してた時だって食堂で白川さんのカレーを食べてた時だって、少しの間でも不安が和らいだんだ。これから、西沢の新しい曲だって聞きたいし、こうやって三人で冒険にも出かけたい。ただ、不安から逃れるためだけのことかもしれないけど、俺はこれからも誰かと思い出を作っていたいよ」
彩花と侑依は同時に満足そうな表情で頷いた。
「そう。なら、清水君はその感情に忠実に動けばいいさ。ボクと彩花でよければいつでもお供するよ。ね、彩花」
「うん。私もひとりでいる時間が多いと不安になっちゃうから、清水君の気持ち、わかるような気がする。じゃあ、清水君。これからもよろしくね」
終末の迫った深夜の海辺で夜光虫が漂う様子を眺めながら、三人は長い時間、語り合っていた。
「ねえ、清水君」
帰り道、踏切を渡ったところで侑依は誠司に声をかけた。
「もし君がこの先、不安に取り殺されそうになった時は、自分自身が偉人であることを思いだすといいよ」
「俺が、偉人?」
思いもよらない言葉に、誠司は驚いた。
「だってそうじゃないか。世界の終末を知って、不安と恐怖に押しつぶされながらも誰も傷つけず、犯しても誰も咎めない筈の罪も作らず、君として生き続けているんだよ? こんな人物を偉人と思わずしてなんとするんだい。そしてそんな偉人は勇敢にもこれから終末を迎える世界を最後まで生き抜くんだ。ボクはそんな偉人がこれからどんな道を歩むことになるのか、楽しみだよ」
投げかけられた笑みが胸に刺さり、沈殿していた粘液を浄化するような気がした。
三人は連絡先を交換し、それぞれの家路に就いた。誠司は家の戸締りをすると、音をたてないように自室に戻った。ベッドに身体を預けると今日の出来事が脳裏を駆け巡った。
「なんだか、すごい、いち日だったな。いつも通り白川さんのカレーを食べるだけかと思ってたら、東条と西沢に会って。二人とも、何も変わってなかったな。変わったのは俺だけだったのかな。不安で仕方なかったからな。そうだ。西沢にそんなことも見透かされてたんだ。やっぱアーティストってすごいな。そして三人で夜の街を歩いて、死神のリーダーに変なもの見せられて。やばかったな。そう。それからコンビニへ行って。あ、コンビニの人が西沢の曲知ってたんだった。西沢の曲、聞かなきゃ。なんてアーティスト名だっけ。曲名は……」
思いだす程に記憶が薄れてゆく実感が湧きあがってきた。
「駄目だ。これを忘れちゃ駄目だ」
誠司は棚から新しいノートを取り出すと表紙に“終末日記”と記した。彼が書き始めたのはこんな内容であった。
世界はあと少しで終わってしまうらしい。僕はこれから毎日、この日記を書こうと思う。終末が知らされてから、人々はおかしくなっていった。僕はそれが普通なんだと思っていた。でも、違った。終末を知っても変わらない人や、善くあり続けようとする人たちもいた。僕はそんな世界を生きる人間として、世界の記録をとりたい。誰かに見せる日が来るはずもないことは分かっている。でも、世界の様子を、生き続ける人のことを、記録に残したい。そうせざるを得ない気がする。
まずは、今日のことから。今日は食堂で東条と西沢に会って、深夜の冒険に出かけることになった。
誠司は日記を綴りながらあらゆる注釈を付け加えた。彩花と侑依に会うまでの経緯、北塚の家族に何があったのか、白川がどうして毎日カレーを振舞っているのか、どれくらいの頻度でビーフシチューが出てくるのか、彩花にだけ聞こえるという世界の声とは、侑依の不動の作曲への意志。克明に、克明に、克明に! ペンを走らせ続けるうちに、ひとつの書き洩らしもあってはならぬという言い知れない義務感が彼を支配していった。
滅びゆく世界を記録するんだ。
全てを忘れて、彼は明け方までかかって記録を続けるのであった。ノートの頁はまだ幾らも残っていた。