自分の命をどう使おうか
タイトルの言葉を出会の場でいただいた言葉。
そのかたは、そのように思って日々活動をしているようだと知りました。
というよりも、どんなことをしようかな、どういうふうにこれから生きていこうかな、という言葉はよく聞くのですが、命をどう使おうか。という言葉を持ってきた方やいらっしゃらなくてとても心に響いたのですよね。。。
で、今日は何を書こうかというと。。。。
人はそれぞれが正義感とか、価値観とか、そのような言葉で自分を保つために持っているものがあると思うのだけれど、、、
正義感ていうなんとも不可思議な、こうせねば、こうしてあげなくては、こうすることが当たり前ではないか。。という押し付けというような形で攻撃する場合があるのだけれど、それが今風で言うのなら、多様性を認めようというのであるのならば、いろんな気持ちや在り方も理解ができない時でも一度は持ち帰り、一緒に考える、そのような気持ち、考え方に至ったその人のことも、色々受け入れることができたいいのだが、なかなかそれは一概には多様性を認める。と言うようにはならないのだと、また最近の案件からちょっとかなり疲れることがあった。。。
自分自身のことではないが、なかなか説得までしてと言う気にもならないほどの怪気炎でまくしたられると、なんとかハラスメントではないが、心が荒んでくる。。。しかし客観的に見ていると、その怪気炎をどうしてこの人はあげなくてはならないのか、どうしてそのように拘束したり過度に関わるのか、多分一つのそのきっかけとなったことがあって、それがある意味の正義感に変わって至ったのかもしれないが、その正義感とすれば、間違いであると自分は思うのだが、その人は間違いでもなんでもなく思いがそうさせたと、それが当たり前の思い出しそうあるべきでしょ、となる。。。
自分には立ち入る権限もないので、ただ助けたい人がいるけれど、難しい状況の中では自分の感情は抜きに冷静に見守ることしか今はできないし、できることを周囲の社会的資源でなんとか乗り切れればと思っている。
ただそのための自分にはエネルギーがあるかどうかもそうだが、どこまでが自分中で変なおせっかいにならないように自分のできることの範疇が変にやりすぎず、いい関係を周りから固めて色んな人の助けを知恵をいただくことが大切かと思う。
頭の整理をしてくて書いたが、
役割の中で自分のできること、任せること、知恵をいただくこと、お願いすること、を分別することが必要みたいだ。。
まずは勉強も必要であるな。。。
そして小さくも大きくも歴史を知ることも大切かと。。
発酵あんこ作りながら、明日の仕事も色々と思いながら。。書いてみた。