無我と現代社会

それではお互いに自己紹介をして下さい。今まで何度この言葉を聞かされてきただろうか。あらゆる存在は刹那滅的に、消滅と生成を繰り返しているのだから、今この瞬間の自己を紹介することに何の意味があるのだろうかなんて思ったりもする。

あなたと私が今向かい合って話しているのは現在であるはずなのに、自己紹介はあまりにも過去形である。外見だけでは、どのような人物か判別出来ないから、レッテルを貼りたいのだ。年齢や学歴、職歴などを参考にこういう人だという人物像を即座に作り上げ、その人物像に合わせた会話を行なっているのだろう。

人はあまりにも社会的な動物だから、立場の上下に敏感だ。人間が平等だと思っているのは、きっと憲法14条ぐらいだ。いや、憲法ですら「法の下に」と注釈をつけるぐらいだから、人間の不平等性を認識しているのだろう。

個人の価値が重視され、セルフブランディングが求められる時代になっている。SNSでお洒落をしたり、面白いことを言って、世間の注目を集める。人間の商品化だ。人間が値踏みされていく。人間の価値が曖昧だったから、平等という言葉で説明できた。もし価値の序列が明確になったら、平等という概念そのものが不要になるのかもしれない。無価値な製品が社会から消えていくように、無価値な人間も社会から排除されていく。排除されないようにと、偽りの自己をアピールするようになる。もういっそ捨てられた方が楽だと思った人たちが、社会から離脱していくかもしれない。

行き過ぎた個人主義の蔓延する現代社会に疲れたら、目を閉じて、いったん自我を忘却すべきだ。悲しみも苦しみも喜びさえも忘れてしまえ。そして、新たに世界を再構築する。5秒前までの世界とは異なる世界が広がっているから。

私にとって、自己など必要ではない。だっていつだって世界を再構築出来るのだから。これが、自己紹介を求められた時の答えだ。

なんて思いながら、○○大学卒の○○です。って明日も言ってしまうんだろうね。その方が楽だから。

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