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映画を1日に4本観た。

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んだ。
この本は、読書が好きだった作者が社会人になって働き始めると疲れてしまって、たとえ日々の隙間に時間が取れたとしても本を読む気になれず好きだったはずの読書が億劫になってどんどん本が読めなくなっていくという経験から端を発している。そうした労働の中での歯痒さをXで投稿したところ、同様に働き始めると今まで好きだったことが出来なくなる人の声がたくさん届いたという。それには、趣味に限らず、“家族とゆったり過ごす”・”丁寧に日々を過ごす”といった生活習慣も含まれる。そうした各人が自分の生活の中で大切にしたいと思っていた文化労働の中で蔑ろにされていくのは何故か、ということを考えていくのがこの本である。

自分も元々本や漫画を読んだり映画を観たりするのは好きだ。しかしここ数年はどうにも疲れ切っていて何かを観たり読んだりするにしても、何も考えずに観れるものをチョイスするようになっていた。勿論、それはそれで楽しいのだけど、観たい!と思いつつ何となく観る元気が今はないから余裕がある時に観よう…と思って永遠に余裕が生まれることはなく観たいリストがただ膨れ上がっていく状態にはウンザリしていた。
そして8月頃に疲労が爆発した。
年間でもなかなか連休を取ることが近年では少なくなっていたのだが、2週間ぐらい休んだ。休暇として休みを確保したというより、体調を戻すために結果的にそうなったのだが休みは休み。あらゆる予定をキャンセル。やることがなくなったので最初のうちはとにかくボーッとして、ボーッとするのにも飽きた頃、溜まっていた観たいものリストを消化し始めた

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』ではある映画の登場人物のやりとりが引用されている。麦という男性絹という女性の2人の会話だ。大学生の時に出会い文化的趣味で意気投合して付き合い始めた2人が、社会人になって同棲し始めるが生活の中で擦れ違いを重ね、心が離れていくシーン。会社員となった麦は仕事が忙しくて好きだったものに触れても心が動かなくなってきてることを絹に伝える。未だに大学生の時と変わらず好きなものを摂取し続ける絹を麦は羨ましいと言いつつも、好きなことで食っていこうとするのは人生ナメてるとか言い出し始める。『花束みたいな恋をした』という映画だ。

自分が大学生の頃、よく読んでいたブログがあった。漫画ソムリエと名乗る人が独自の視点で漫画を紹介するブログだ。漫画だけでなく映画や小説も紹介していて、常日頃たくさんの漫画・本・映画に触れているのが伺えた。この人がオススメするなら面白そうと思って触れた漫画や映画は沢山あった。何なら漫画や映画自体はそんなに面白くなくてもこの人の書く文章が面白くてブログを読んでいるところがあって、この人が言ってたことってこういうことかと確認したくて漫画や映画を観ることもあった。
そのブログだが、いつしか更新頻度がガクッと落ちた結婚・仕事・子育て、そのどれかが原因か、もしくはその全部が原因か、とにかくブログを更新することが減り、たまに新しい記事が上がっていても、更新頻度が下がったことを謝る一言最近あまり映画や本に触れられていないことを嘆くような文章ばかりだった。観てはいるんだけど文章を書くまとまった時間が取れない、子供を優先するようになって観る映画の種類が変わってしまった、数を読めていないので最近の漫画の潮流が分からない…
気付いたらブログの更新は止まっていた

『花束のような恋をした』の麦はイラストレーターを目指して活動する。絹も麦の活動を応援する。大学を卒業して麦は細々とイラストレーターの仕事をこなし、絹は資格を取って歯科医の受付の仕事に就く。仕事を安く買い叩かれ更に一方的に打ち切られ、イラストレーターとしての仕事を失った麦は生活の安定のために一般職に就く。仕事をしながらでも絵は描けるからと就職した当初は言っていたが、麦は次第に全く絵を描かなくなっていく。一方、絹は知り合いの紹介で給料は下がるものの、イベント会社に転職を決める。その際の会話が『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の冒頭で引用された部分だ。変わらずに趣味を楽しみ続けることが出来る絹と、趣味が頭に入ってこずパズドラで時間を潰すことしか出来ない麦

休み始めのボーッとしていた時期は、何もせずにただただ眠っていた。この頃は普段の生活で合間に漫画や本や映画に触れても入ってこないことが多かった。仕事も休んで何もやるべきことがないタイミングとはいえ、今漫画や映画に触れたとしても疲れるだけでまた何も入ってこないだろう、ということでひたすら眠っていた。眠りに眠って眠り疲れた頃、最近やれてなかったことをやろうと、映画の観たいリスト積読になってた本や漫画を消化し始めた。手に取り出すと、ただ溜まっているリストを消化してるだけでは足りずに、新しい本を買ったりリストに載ってない目についた映画を観たりして、結局リストや積読の総数は変わってないのだが、それでも楽しかった。10巻以上ある漫画の一気読みもして、摂取することの勘のようなものを取り戻してきたので、思い切って1日で映画を4本観た。その1本目が『花束みたいな恋をした』だった。

1日で映画を4本観る。それだけで麦は鼻で笑うだろう。もしくは、俺にはそんなことする暇ないから羨ましいとか言う。一緒に観ようよと誘っても俺は良いよ、俺のことは気にしないで絹ちゃん楽しんでとか言ってくるのだろう。言われなくても勝手にこちらは楽しむが、ならばこちらの興が冷めるような態度はやめて欲しい。そちらも勝手に楽しく生活してくれまいか

麦が就職すると言った時も否定しなかった。麦の言うとおり絵は好きな時に描けば良いし、仕事で絵を描くことを辛そうにしていた麦の姿を知っていたからだ。また絵を描きたくなったら描けば良いし、もう絵は描かなくていいやと麦が選択したのであれば絹は受け入れただろう。
麦の実家は花火職人で、継がないのであれば東京での生活に援助はしないと言われたのに対し、絹は東京生まれで両親は広告代理店的なところでバリバリ働いてるハイソな家庭である。だから絹と比べて麦には選択肢がなかったというところはあるかも知れない。
だからと言って、麦に卑屈になられても絹にはどうすることも出来ないし、絹のライフスタイルを麦に否定される謂れはどこにもない。絹と一緒にいるために俺は働いているんだと言われても絹はそんなことを言ったことも望んだこともないのだ。

漫画ソムリエのブログはいつしか漫画ソムリエ廃業編と名前を変えていた。もうその頃には更新頻度はガクッと落ちていたのだが、内容からして仕事や子育てが忙しいことは伺えた。つまり、生活が立ち行かなくなりブログを書いてる場合じゃなくなったという訳ではなく、むしろ生活は充実していて人生のステージが変わっただけのように思えた。なのにブログの内容は以前と比べると暗くて、観れてない読めてないことへの愚痴や嘆きが多くなっていった。
でもゼロではないのだ。麦のように全く触れる気がしなくなった、という訳ではなく、仕事や子育てをこなしながら触れてはいるのだ。だから、それについて今の視点で書けば良いだけの話ではないのか。確かにソムリエと名乗れるほど、多くの品数に触れることは出来なくなったかも知れないけど、仕事や子育てに追われている今の生活の中で触れたものに対して思ったことを綴ることは出来たのではないか。
僕は漫画ソムリエが凄いと思って読んでいたのではなく、あなたの視点が面白いと思っていたからブログを読んでいた。でもソムリエはソムリエであることによっぽどプライドを持っていたのか、ソムリエ廃業という自虐的な変更を加えて間もなく、大して記事も上げないまま更新を途絶えてしまった。

麦が慕っていた先輩を亡くした時、麦は絹と共に先輩を弔って一晩飲み明かしたかったが、絹は早々に寝てしまった。絹は麦がそうしたがっているのも感じ取っていたが、その先輩が彼女さんに対してDV気質だったことを知っていて、どうしても麦と同じ気持ちにはなれなかったのだ。絹のその感じに麦は気付いておらず、ただ気持ちがすれ違っているとしか認識できない。

気持ちはすれ違ってなどいない。ただ麦は絹を認識できていないだけだ。
お互いが、あなたがあなたでいてくれれば良いと伝え合えばそれで良かったはずなのだ。付き合い始めた当初、麦は趣味で撮ったガスタンクの映像を繋ぎ合わせた自主映像を絹に見せて、絹は国立博物館でやってるミイラ展に麦を連れて行った。後々、ガスタンクミイラ互いに興味がなかったことが発覚するが、それに興味を持つあなたには興味があって互いに惹かれあっていたのではなかったのか。
漫画ソムリエのブログを発見したキッカケは思い出せないけど、好きな漫画の感想を検索していたらたまたま見つけたのだったと思う。同じ漫画に対してこんな感想を持つのか、そんな視点があるのか、そういうところからブログを読むようになったのだ。いっぱい漫画や映画のことを知っているのは凄いと思ったけど、そこが凄いと思って読んでいたのではない。あなたの視点が面白いと思ったから読んでいたのだ。

ただ、仕事に疲れると以前好きだったものが全然楽しめなくなってしまう気持ちもわかる。観ただけで心が震えて元気になっていたのに、触れても何も感じない自分に対して愕然とする気持ちもわかる。そんな自分を正当化したくて、以前と変わらず楽しんでいる絹を、麦は皮肉ったり羨んだり自虐ったりして貶めるしかなかったのだろう。
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』では、自分が大切にしたい文化を蔑ろにするほどに労働に打ち込むような社会はもう止めにしませんか、と唱えている。なかなか難しいけど、自分もそんな社会が良いな、と思う。

2本目は『哭声/コクソン』を観た。
國村隼村を襲う悪霊役で出てくる韓国映画。
國村隼の悪霊っぷりは面白かったが、法則性なくノールールで襲ってくる悪霊は災害みたいなものなので、正味あんまりピンとこなかった。『来る』も同様に何をしたら襲われて何をしたら逃れられるのかが分からなくて、あんまり怖くなかったのを思い出した。『ヘレディタリー/継承』『ミッドサマー』のように構造的に逃げるのが不可能で追い詰められる、というのが本当に怖くて自分の好みには合ってる。

3本目は『ザ・ホエール』
ブレンダン・フレイザー過食症で家から出られなくなった男性を演じ、アカデミー賞を獲った作品。自分の行為が後悔として残り、その罪の意識に囚われて動けなくなった男性が、その後悔の対象である娘の行動によって自身の過去の行動を肯定することが出来て、最後にはその巨体が浮かび上がる。
とても良き映画。

4本目。『キャロル・オブ・ザ・ベル 家族の絆を奏でる詩』
ユダヤ人一家の母屋にウクライナ人一家とポーランド人一家が越してくる。民族的・宗教的な対立のために不和な雰囲気が流れるが子供たちがウクライナの民謡を歌ったことで三つの家族は仲良くなる。しかし度重なる戦争の影響で次々と大人がいなくなっていき、最後にはウクライナ人のお母さんが残った子供達を一人で全員匿うのだが…。
子供の純真さと戦争の哀しさがギュッと詰まっていて、とにかく悲しい。戦争は良くない。本当に。本当に。

面白い映画もそんなにハマらなかった映画もあったけど、映画を1日で4本観るというのもたまには良い。映画を観て何も感じない時は疲れている証拠だが、1日に映画を4本観れるのは元気な証拠だ。
人間、元気が一番である。

『花束のような恋をした』の冒頭は、一つのイヤフォンを片耳ずつ付けて音楽を聴いている若いカップルに対し、あの聴き方では本当に音楽を楽しめない。気になりすぎるから注意してくると別テーブルの別カップルからそれぞれ男と女が同じタイミングで立って近づき注意しようとした所でお互いの存在に気づく、というところから始まる。それは別れてから数年経ってそれぞれ別の人と付き合うようになった麦と絹であることがラストにわかるのだが、この注意はかつて麦と絹が他の人から受けたものであった。
麦と絹がまだ付き合うかどうか微妙な頃、何回目かのデートで麦が絹に告白しようと決めたものの、デートの終わりが迫ってきたのでいよいよ告白しようと焦っているところのシーン。ファミレスにて麦と絹が片耳ずつのイヤフォンで音楽を聴いてるのを隣のサブカル蘊蓄おじさんが急に話しかけてくるのである。イヤフォンは右と左で出る音が違うのが云々モノラルとステレオが考えられて作られたものだから云々と聞かされて結局、麦は告白のタイミングを逃してしまう。(結局その後に告白するけど)
つまり、後から考えれば笑い話にはなるかも知れないが、片耳ずつのイヤフォンで聴いてるのを他人から音楽的な知識のために注意されるのはイヤな経験として残っていると思う。2人だけで楽しんでいるところを知らないおじさんから水を差されたのだから。
そのムーブを数年経ってから若者にかますようになってるあたり、麦と絹はちょっとイヤなところが似たもの同士である。そう考えると案外そのまま結婚していても上手くいったような気がしてくる。性格のイヤな部分が似ているカップルは一緒にいやすいと思う。ストレスを感じるところや、他人に不満を覚えるところが同じということだから。周りから嫌われるカップルになりそうだけど。
そもそも共通の趣味で盛り上がりすぎると、その熱量に差がついてくると気が合わなくなってしまうのは当然で、最初の出会いからメチャクチャ別れそう!とは思っていたので最終的に別れてしまうのはむべなるかなという感じであったが、イヤなところで性格が似てる二人でしたという終わり方に運命的だけど素敵じゃない気持ち悪さがあり、少なくとも花束のようなキラキラは感じなかった

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