【批評】「アメリカ式スポーツビジネス」は欧州と本当に異なっているのか
気づけば4ヶ月前ですが、以下の記事が僕の周りの界隈で話題になりました。(noteでアメブロを紹介してすみません)
なんで今更そんなに前の記事を引用しているのか?となると思うのでその経緯をとりあえず説明します。
最初にこの記事を読んだ感想は
「めちゃくちゃいい記事!でもなんかモヤモヤする、でもそれがうまく言葉にできない。悔しい」という感じでした。
仮にもアメリカのスポーツを現地で学んでいる身として(最大の目標である仕事を得る段階まで行ってませんが)何かただ単に「勉強になるな、これは必読だ!」以上のコメントをしたかったのですが、経験と知識が足りていない故に、そこまで踏み込むことができませんでした。
ただ、それから4ヶ月。合計で約半年アメリカにいる中で流石に感じているものも増えてきました。という訳で、改めてこの記事に対して思ったことを批評という形式で文字にしていきます。
※注意
先に言っておきますが、引用記事の執筆者である佐伯さんは、冒頭で以下のように述べています。
なので、決して「全然違うぞ!何もわかっていない!」とか言って攻撃するつもりではありません。違和感を言葉にし、比較をすることでアメリカ式スポーツビジネスの見方の1つを提示しているだけであるという点をご了承ください。
アメリカスポーツ=100%資本主義なのか
まず僕の中で疑問を覚えたのはこの構図である。確かに、アメリカスポーツといえば華々しい演出に彩られた、商業的なイメージが強い。これは実際にアメリカに来る前の自分も同様で、そのような人為的な仕掛けを学んだほうが、日本に還元できるものが大きいと思ったからこそ、欧州ではなく、アメリカを留学先として選んだという点がある。
佐伯さんにとってもその印象は強いようだ。しかし、それが少しズレた形で表れているように感じるのが以下の部分だ。
確かに、欧州との相対的な視点に立てば「気にしない方」なのかもしれない。ただ、かといって「さほど気にしない」というのは流石に言い過ぎていると思うのだ。
例えばオークランドアスレチックス。彼らは、オークランドから一時的にサクラメントへ、そしてさらにはラスベガスへと移転することが決まっている。確かに暴動は起きていない(そういうニュースは目にしていない)が、ファンのリアクションは決して穏やかではない。特にオーナーのジョン・フィッシャーの嫌われっぷりと言ったらすごいもので、どれくらいかと言えば、マンチェスターユナイテッドの前CEOのウッドウォードくらい、Jリーグサポーターから見た町田の黒田監督くらい嫌われている。
スタジアムは「Sell the Team」コールが巻き起こり、同じ文言のTシャツも販売。(確かにこれは資本主義っぽい)別の記事でも紹介したが、ブチギレたスポーツレポーターが、オーナーのコメント文を収録中にビリビリに破くなど、相当のものである。これはいくらなんでも「さほど気にしていない」と言うには難しいのではないだろうか。
地域に密着するカレッジスポーツ
また、欧州のような「地域密着型」のスポーツ団体が存在しない訳ではない。それがカレッジスポーツである。
とにかく日本では考えられない規模でアメリカでは大学スポーツが人気。特にアメフト。あのEAスポーツが手掛けるゲームまで販売されているほどだ。
ちなみにスター選手は大学生とは思えないほどの金額をもらっている。ここら辺は本当に資本主義的。個人的には一線を超えていると思っているのでぶっちゃけ支持していないが、ここに踏み込むとまた別の記事を書く羽目になるので、一旦割愛するのをご了承いただきたい。
とはいえ、大学のランキングによらず、地元民に愛されていると言うのが特徴的。みんな自分の出身大学の成績を気にしていて、各大学のマスコットも完璧に認知している。卒業校のマスコットを揶揄する形の「これだからDucksは」みたいな先生の一言が授業でウケる。留学生には全く分からない。
やや脱線したが、要するにそれだけ大学スポーツが人々の間で根付いているということだ。欧州でカテゴリを問わずに地元のサッカークラブをみんな応援しているように(ベンメイブリーさんのTaunton town FCなど)大学生のスポーツに熱狂していて、それがアメリカ人にとって地元の代表や卒業生としての誇りになっているように見える。
他にもアメリカに特有であると感じるのはその国土の広大さである。世界でも3番目に大きいだけあり、とにかくデカい。カリフォルニア州に日本が入ってしまうという話はこっちでの鉄板トーク。実際、僕自身、距離の感覚がおかしくなり始めており「電車で1時間半か、近いな」と思うようになってきた。そんな国なので「ホーム」に対する意識が欧州や日本などと比べて大きいのではないだろうか。そして、これは「移転」に対する認識にも違いを生む。
例えばロンドンだけでプレミアリーグのチームは7つあるため、その中で移転をするとなれば、1区画変わるだけでも大きな問題だろう。一方で、こんなにも巨大なカリフォルニアに、MLSのクラブはたった4つ(うち1つは2025から参入)しかない。日本より大きいにも関わらずである。「ホームタウン」という認識そのものが、他の国とは異なると考えても妥当なのではないだろうか。
差別との戦い
米国型スポーツと欧州型スポーツとの共通点として挙げられるのが、抑圧に抵抗する象徴、プラットフォームとしてのスポーツだ。
米国での抑圧といえば、人種と性がその対象となってきた。(奴隷も人種に基づくものであると考える)そして、それらの差別や抑圧を跳ね除ける一つの運動としてスポーツが存在してきたのである。
例えば、女子テニスプレーヤーのビリー・ジーン・キングは、1973年の「バトル・オブ・ザ・セクシズ」で男子選手であるボビー・リッグスと戦い勝利することで、女性の権利運動の推進の象徴となった。
他にも、MLB最初の黒人プレーヤーであり、新人王やリーグのMVPにも輝いたジャッキー・ロビンソンがデビューした4月15日は、MLB全体で彼の功績を称える日となっており、全選手がロビンソンの背番号「42」を着用するこしている。
このように、差別に対する抵抗の象徴としてスポーツが機能し、それが後世にも受け継がれているのである。そのようなアスリートの姿を見ることは、抑圧されていた層のファンにとっては希望として写り、自分自身をそこに投影し、そのスポーツへ熱狂するきっかけとなるだろう。この点は、資本主義と民主主義という枠組みで二項対立的に描かれていた米国と欧州のスポーツ文化に大きな共通項があることを示している。
既得権益的なピラミッド構造
次に私が触れたいのは以下の部分だ。
まず、前提として佐伯さんの主張は基本的に正しいと思う。原理的に、ピラミッド構造は下剋上を是としている仕組みで、階級制度に対するアンチテーゼ的な反映がされていることはなるほど!となった。
そして、スーパーリーグ構想に対しては、実際にロンドンの青いチームのファンの僕としても複雑な感情がある。しかし、欧州のスーパーリーグ構想とアメリカのリーグ構造を安易に一緒くたにしてはならないように感じる。
スーパーリーグ(Unifyリーグと改称して復活を計画中)は、確かに排他的特徴が強い。チャンピオンズリーグのように、その年の国内大会での成績により新たな加入は可能だが、その枠は限られており、「自由競争」を謳うには結構無理がある構図になっている。
一方で、確かに似ている部分はあるにせよ、アメリカのリーグは異なる。それがExpansionという制度、要するに新チームの追加制度である。これは、たくさんのお金を払うなど(ここは非常に資本主義的だが)様々な条件を満たすことでダイレクトにトップリーグに参入できるよ、という仕組みだ。例えば、1996年に10チームで開始したMLSは、2025年時点で30チームまで増加。メッシが所属するインテル・マイアミなども2020年に発足、参入を果たしたチームだ。
このような参入は昇降格のあるピラミッド構造のリーグでは許されない。お金があるという理由で、トップリーグに入れてしまうことはまさに、資本主義的である。しかし、現代スポーツにおいて、果たしてどちらの方が自由であるか?という点では一概に切り捨てることができない。
これは、私がSHIBUYA CITY FCという来季より関東2部に昇格する(🎊)チームでインターンをしていて感じたことなのだが、とにかくJリーグが遠すぎる。それどころか、関東リーグ、JFLでさえも、と言ってはなんだが、までもめちゃくちゃに遠いのだ。
確かに、一定の資金力があるオーナーがいない限り参入はできないという点で権威的ではある。しかし、先行者有利のような形でトップリーグにいることができるというのもまた、権威主義的ではないだろうか。確かに、降格があるため完全に立場が守られている訳ではない。しかし、カテゴリが下がるほどに、資金力や注目度、戦力には明確な差があり、立場が守られやすい状態になっている。
そもそも、現代スポーツにおいて資本力なしに昇格していくことは非常に難しい。イプスウィッチタウンのプレミアリーグへの昇格はアメリカ資本の参入なしには実現しなかっただろうし、現代ではピラミッド構造を勝ち上がっていくにも資本主義は必要なのだ。
一定の資本力を前提としているアメリカのリーグ構造は間違いなく資本主義的で、ビジネス的なメリットを最大限に反映しているシステムである。しかし、当初は階級を排除することの象徴であったピラミッド構造も時代の流れとともに、既得権益的な特徴を持つようになっているのもまた事実である。
最も影響力のあるトップリーグへの直接的な参入を可能にすることは、リーグ全体の活性化やこれまでチームが存在していなかった地域に新たなチームが生まれることを可能にする。これが顕著なのが、アメリカでの女子スポーツだ。現在進行形でバスケットボールやサッカーの新チームが発足しているのだが、それがもたらす熱気は凄まじい。莫大な投資と広告塔になるような選手を獲得し、一気に話題を攫いスポーツ界へと参入していくことで、結果としてそのスポーツ全体の人気を後押しし、発展させることに繋がっている。
これらの主張が資本主義的な視点に立っていることは事実だが、新たな参入をむしろ可能にしている制度であるという点で、昇降格なしのリーグにも違った形の自由があるのだ。
「アメリカ式のスポーツビジネス」とは何か?
このように、今回私が佐伯さんの記事に対して様々な違和感を覚えた理由は、「アメリカ式のスポーツビジネス」に対する世間全体の偏ったイメージなのではないかと思う。
佐伯さんのアメリカスポーツへの印象は以下のように述べられている。
おそらくこの点は間違っていないというか、私自身も同じ印象を受ける。先ほども少しだけ触れたが、カレッジスポーツはまさにその象徴であり、学生であるはずのアスリートたちは、提示された条件に応じて入る学校を選び、プロ選手のようにプレーするチームを変え、NIL(名前や肖像を商業目的で活用して収益を得る権利)を通してお金を稼いでいる。これは、資本主義的なスポーツ、アメリカの象徴であると言えるだろう。
しかし、以下の点に関しては非常に違和感を覚えるのである。
おそらくこれが佐伯さん、そして世間での「アメリカ式スポーツビジネス」なのではないだろうか。実際に私も渡米前はこのような印象を受けていた。
しかし、ここまで紹介したように、アメリカのスポーツも様々な歴史や文化があり、その上に今の商業的スポーツ大国が築き上げられている。
なので、花火を打ち上げることも芸人さんを招待することも、それらは全て表層の表層、上澄みの上澄みである。プリンのキャラメルの上に張っている膜をすくい取って「これがプリンか美味しくないな」と言っているようなものなのだ。
そもそも、ちいかわを呼べば成功するほど資本主義社会は甘くはないし、それはJリーグも分かっているだろう。そのような施策にフォーカスし、それが「資本主義的なスポーツビジネスです!」というのはもはや資本主義に失礼ではないでだろうか。
※Jリーグのマーケティングに関しては以下より詳細が見られます。ちいかわも載ってます。
では、アメリカ式のスポーツビジネスとは何なのか。残念ながら、それを見出しのように断言することは今の私にはできない。
だが、こう考えることはできる
「なぜアメリカ人はスポーツの試合で花火を飛ばしはじめたのか?」
ということだ。
花火を飛ばしたからスポーツビジネスが成功したのではなく、きっとそのような仕掛けを行おうと決断し、それを受容した彼らの精神や文化、国民性にこそ、アメリカのスポーツビジネスの成功の要因が隠れているのではないか。
だからこそ、私は佐伯さんの以下の主張に非常に強く賛同する。
欧州とアメリカは全く違う。そして、同様に日本も全く異なっているのである。
であるならば、「アメリカもドローン飛ばしているからドローンを飛ばそう」と言ってスタジアムをディズニーランドにしようとしたところで、うまくいくわけがそもそも無いのだ。というか、ディズニーランドだって国ごとに変えてるって昔ヒルナンデスで風間俊介が語ってた気がするぞ。
終わりに
僕が今回の文章を書きたいと思ったのは、特にサッカー好きな人たちの間で、「アメリカ式スポーツビジネス」への偏見に伴う「スポーツビジネス」への偏見が生まれ、「おらが街のクラブ」のような地域密着で愛されるクラブ経営との二項対立のような形式の中で悪者の方になっていく様が嫌だなというか、勿体無いように感じていたからだ。
本来、スポーツビジネスというのは、血も涙もない人たちが「スポーツでお金を儲けてやるぜ、グヘヘ」「ふふふ、お主も悪よのう」みたいなことをしているわけでは無い。きっと、そういうオーナー様もいるとは思うが。ただ、陳腐な感情論を語る訳ではないが、私がお話をさせていただいた、アメリカのスポーツ業界にいる方々はみんなスポーツを愛しているという原動力で日々働いているように見えた。
そして何より、資本主義の枠組みをうまく使うことは、スポーツ振興や社会の活性化に繋がるはずである。広島や長崎の新スタジアムなどはまさにその好例だろう。
先行者有利があれば、後発者有利もある。スポーツビジネスにおける後発者である日本は、その特権を生かすことができる立場にいる。しかし、スポーツは幼少期から大人まで、教育・健康・文化・娯楽など様々な側面で顔を出すがゆえに、複雑性が非常に高い。だからこそ、佐伯さんの言うとおり単純な比較をするのではむしろ落とし穴にハマってしまう。
欧州フットボールも「聖なる領域への不可侵」という譲れない文化を守りながら、「アメリカ式」を導入していくのだ。であるならば、日本スポーツにとっての「聖なる領域」とは何か。そもそも存在しているのか。
まさに佐伯さんの言うとおりである。スポーツを発展・繁栄させるのは難しい。でも、だから楽しい。
あとがき
元々は「めちゃくちゃいい記事!でもなんかモヤモヤする、でもそれがうまく言葉にできない。悔しい」と言う読後の感想から発展させて、「抽象的な思考よりも実は具体的な思考の方が大切なのではないか」ということを書くつもりでした。でもあまり筆が乗らず、それから4ヶ月が経って読み直してみたら、「あれ書けるかもしれない?」と思い書きはじめたのが今回のnoteです。
そして、書き終えてから文字数に驚きました。全然そんなつもりがなかったのに、それだけ書くことができる題材を与えてくださった佐伯さんに感謝したいです。お話ししたこともないですし、ご本人に届くとも思っていないのですが。勝手に批評という少し大層な名前もつけて今回のnoteを書くことができたのは、熱量と独自の経験と視点に満ちたブログ(他社プラットフォームだけど)があったからこそです。ありがとございました!