〈存在の連なり〉とはなにか――【用語集】『〈自己完結社会〉の成立』
〈存在の連なり〉 【そんざいのつらなり】
人間の存在様式とは、決して個体としての自己に完結されるものではなく、時間的、空間的な位相を超えた〈他者存在〉とのつながりのなかで現前するものであること、またその無数のつながりのなかからこそ、自らが現実と向き合うための意味や活力が呼び起こされることを表す概念。
「〈生〉の分析」(第二のアプローチ)の視点においては、「〈生〉の不可視化」と「〈生活世界〉の空洞化」を通じてわれわれの〈生〉が〈存在の連なり〉に根づかないものとなったことが〈存在の強度〉を脆弱化させ、〈生の混乱〉をもたらすひとつの原因になったと説明される。
また「〈関係性〉の分析」(第三のアプローチ)の視点においては、〈存在の連なり〉は、「〈関係性〉の場」という形で、〈自己存在〉を形作る「意味のある〈関係性〉」の網の目として理解される。
〈社会的装置〉に依存する「〈ユーザー〉としての生」が拡大していくと、人々は〈存在の連なり〉=「〈関係性〉の場」から切り離されるだけでなく、そこで成立する自意識からのみなる虚構の「この私」こそが、自己の本質であると錯覚するようになる。
しかし近代的な人間の理想が追い求めてきた「時空間的自立性」と「約束された本来性」からなる「あるべき人間」の理念とは、まさしく〈存在の連なり〉から解放された「思念体」のごとき人間であり、近代的な自由と平等を希求すればするほど、われわれは〈存在の連なり〉をめぐって多くの矛盾に直面することになる。
人間は有限な存在でありながら〈存在の連なり〉を生きる存在であり、それは同時に〈存在の連なり〉を生きる存在であるからこそ〈有限の生〉とともに生きなければならない存在であるとも言える。
それゆえ、〈存在の連なり〉を生きることは残酷である。しかしその〈存在の連なり〉の先に、同じく〈有限の生〉を生きた無数の生があること、その「生き方やあり方」に触れることで、人は「担い手としての生」という新たな意味を自己に喚起させることができる。
これは「意のままにならない生」を生きなければならない人間存在が〈世界了解〉を果たしていく(自らの〈有限の生〉の現実を「肯定」していく)うえで重要なことである。
このページでは、筆者が2021年に刊行した『〈自己完結社会〉の成立――環境哲学と現代人間学のための思想的試み(上巻/下巻)』(農林統計出版)に登場する用語(キーワード)についての概略、および他の用語との関係について説明したウェブ版の用語集のnote版です。
(現在リンク先は、すべてウェブ版を借用していますが、徐々にnote版に切り替えていく予定です。