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お母さんの漠然とした不安…、当たってます!

3歳と1歳の孫が、ほど近い所に住んでいます。
 
 車で1時間もあれば行ける距離ですから、2人で働く娘夫婦からの要請があれば、仕事がない時間帯はいつでも出動できるようにスタンバイしています。2人の子育てをしながらの若夫婦の日常とはそのくらい大変なんだ…、ということは、恥ずかしながら「ジジ」になってから改めて認識した次第です。

 そして、そのことは例え夫婦が共働きであろうが、そうでなかろうが、「変わりなく大変!」であるということも、自宅の周辺家族(とりあえすの主婦が多い)の1日の様子を観察していれば、よ~くわかります。
 就学前の子どもを育てる母親は、それが専業主婦なのか、あるいは育休期間中なのかはわかりませんが、一様に疲れています。「もぅ~、助けてくださ~ぃ!」というココロの叫びを目で訴えているのがわかります。おまけに「コロナ」ですからねぇ~。それぞれの家庭が、まるで保育園状態であるということが想像できるんです。

 ならば、いっそのこと保育園に預けて、お母さんも働き続ければいいんじゃないか? なんて思ったりもしますが、コトはそんなに単純な話ではないんですね。

 女性を働きやすくして「労働力を強化しよう!」なんていまだに言っている政界や財界のお偉いさんの発想の中には、「子育てが複雑で大変!」なんだという前提が、まず不足しています。彼らの頭の中には、日本の経済力復活、狭義にはGDPを上昇させることしかありません。
だから、女性が働きやすいような「社会制度」を充実させれば、きっと女性は経済社会に戻ってくるといった短絡的な思考になってしまうんです。

 上昇志向の強い、一部の家庭にとっては、無理をしてでも子どもへの教育費を捻出し、理想的な教育環境を求めて転居を繰り返すことは珍しいことではありません。子どもが将来にわたって豊かに暮らせるようにするための人生設計のモデルを、親が堅牢に構築してあげる…、そのための教育投資ならわからなくはありません。

 しかし、そういった教育投資自体が、「旧い…」「なんか違う…」といった感覚で子育てをしている夫婦が、近年になって増え続けているんじゃないか…、そう思います。

 そして、そういった感覚って案外と間違っていなかったりします。

 例えば、出産まで働き続けた女性が、育休取得後に「思うところがあって退職する」といったケースは決して珍しいことではありません。そして、この「思うとことがあって…」というのが、今までの男性社会が構築してきた企業の文化や精神に対して、子どもを授かり、その子どもの将来を考えざるを得ないステージに初めて立った女性が、母親の直感として社会に発しているシグナルであると理解することができます。

 つまり、今のままの社会に、母親である自分が復帰して…、で、誰が子育ての責任を負うの? という不安を母親は瞬間的に抱くのであると思います。ならば「保育園…、幼稚園の延長保育」じゃないんですね。

 母親になった女性には、たぶん「見えている」んです。ナニが?って、自分たちを取り巻いている現在の資本主義という「ワケのわからないシステム」の醜い一面、そしてグロテスクな現実がちゃんと見えている…、正確に言えば、子どもという異次元の授かりものを通じて「資本主義が危機的な状況にある」ということを、実はしっかりと察知しているんだと思います。ただ、それを言葉で表現することができない…。

 そして、その感覚と景色は、絶対に子どもを授かったばかりの夫とは共有することができないんです。経験上、男は、子どもができてだいぶ経ってから「父親になる」「家族の実感をもつ」というふうになっているようです。どうやら女性と違って、母親になることで、それまでの景色が劇的に変わるということ自体を、男の場合は経験しないんです。よって、父親の場合、いつかは我が子をリリースしなければならない現実社会に対する負の側面を危機意識とともに強く感じることがないのではないか…、そのように思います。

 結論を先に言えば、20世紀型の資本主義は絶対に終焉を迎えます。それとともに、この20世紀型資本主義の最後の形態であったところの新自由主義経済とグローバリズムも、その使命を終えて姿を変えるでしょう。その兆候はいたるところで見受けられます。その中で、特に重要なメッセージを送っているのが、子どもたちなんです。

 子どもが「学校に行かない!」「学校に馴染まない!」「友だちをつくろうとしない!」と嘆いている親御さん…、アナタのお子さんは、実は健全なのかもしれません。

 「学校」は、まさに20世紀型資本主義を発展させるための「装置」だったのですから、その資本主義の形が変わろうとしている今、その学校に「居心地の悪さ」を通り越して、「恐怖」すら覚え始めた子どもたちの感性こそ、生存戦略的には「あり」なのかもしれません。

 では、21世紀型の資本主義はどのようなものに変わっていくのか? 様々な分野の人々が様々な予想を立てていますが、間違いなく言えるのは、「幸福の尺度が劇的に変わる」ということでしょう。

 20世紀型の「幸福の尺度」は、疑いようもなく「お金」でした。それを「お金じゃない!」と大人がうそぶいても、実は子どもたちにもちゃんとわかっていました。だから「お金」に直結する「学歴」や「肩書き」や「社会的ステータス」を獲得するための「人生ゲーム」を展開していたんです。そして、いつか悟るんです。この「人生ゲーム」…、「振り出しに戻れないんだ!」ってことを…。

 それが20世紀型資本主義がもたらした「絶望」であると私は理解しています。

 新しい「幸福の尺度」は、残念ながら「学校」では教えてくれません。学校は(特に公立学校は)、常に社会が要請する人材を供給するための「装置」でしかなく、またそれでいいんだと思います。よって学校は、社会が新しい価値観で落ち着いた後に「周回遅れで変化する」ものであると考えていればいいのです。

 ということは、その社会変化が落ち着くまでの教育はどうするのか?問題ですよね。

 それに関する私案は、次回にしましょう。
 或いは、その私案に基づいたセミナーを開催していますから、そちらの方でゆっくりと考えていただいても構いません。

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