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2024年を振り返る。
2024年の振り返り。
年末という区切りの時期なので、この機会に2024年を振り返ってみようと思う。
これまで、あまり公表して来なかったけれど、もうそろそろ時効かなという気がするので、離婚のことも書いてみたい。
僕は、昨年、2023年の11月に、離婚をした。
11月6日に、共通の友人に立ち会っていただいて話し合いをし、11日に離婚届を提出した。
2024年1月。
この頃は、まだまだそのダメージが残っていて、何がなんだか分からないままに過ごしていた。
約2年間の結婚生活の中で、なんとか共同生活を成り立たせようと奮闘した。
一緒に生活することが成り立たなくて、それでも、どうにか、一緒にやっていけないか模索し続けた日々だった。
そんな中で一つ僕の気持ちの糸が切れてしまうような大きなきっかけがあり、最終的には、僕から離婚を切り出した。
こう言うと、自分から離婚を切り出しておいて、自分でダメージが残っているというのはどういうことかと思われるかもしれないけれども、自分では彼女と一緒に生きていくために最善を尽くしてきたつもりだったから、それができなかったということは、僕にとっても、とてもつらい経験だった。
「すべての人にとってしんどくない社会の実現」という理念を掲げて生きてきた。
この理念を達成するために、「学校をすべての人にとってしんどくない場所に」という目標を立て、この目標を達成するために、教員として働き、学習コミュニティ『ディアローグ』を運営してきた。
教育思想史研究も、この目標を達成するために、ずっと手離さずに取り組んでいる。
でも、結婚生活の中で、教員の仕事も、『ディアローグ』の運営も、教育思想史研究も、すべて、ままならなくなってしまった。
それくらい、彼女を支えることは難しかった。
それでも、「すべての人にとってしんどくない社会の実現」という理念を掲げる僕が、今目の前でしんどい想いをしている彼女を支えなければ、それは、自分の理念を裏切ることになってしまうと思った。
だから、僕は、自分の理念のためにしていることをすべて一旦傍に置いてでも、彼女を支えようとした。
でも、それはできなかった。
僕の中で一番大切にしていたものを投げ出してでも叶えようとした、彼女とともに過ごすことが、僕にはできなかった。
そのことで、僕は、とても無力感に苛まれた。
そんな中で、学校の仕事も、なんだか手につかなくなっていた。
算数少人数指導の担当から、育休の先生の担任代理になった経験は、良い経験をさせていただいたと思っている。
けれども、自分のことで頭の中がいっぱいいっはいになっているところに、管理職から、こちらが対話の限りを尽くしたにも関わらず、全く筋の通らない論理を押し付けられ、精神的に、かなりやられてしまった。
「押し付けられ」なんていう表現は、僕はめったなことがない限り使わないけれども、今になって思い返してみれば、かなり無理のある論理を「押し付けられ」たものだったと思う。
それで、『ディアローグ』の仲間にその話を聴いていただき、そこから、この感情を歌にするというアイデアが浮かんだ。
そして、そこで完成した楽曲が「LOGOS」だった。
平穏な生活
送るつもりでいたけど
論理が通らないものを
認めるわけにはいかない
藤原 敬「LOGOS」
本当に、この歌詞のそのまんまのことを思っていた。
僕は、学校で自分から争いを起こしたいと思ったことなど一度もない。
でも、論理が通らないものを認めることはできない。
それで、結果として対立してしまう。
僕の教員生活は、そういうことばかりだ。
でも、本当にもう対立はしたくない。
だから、頼むから筋が通らないことを押し付けるようなことはしないでほしい。
そう願うばかりだ。
もちろん、僕も、相手に何かを押し付けなければならないと思わせてしまうような頑なな仕事の仕方はしないようにしなければいけない。
可能な限りどんなことでも柔軟に受け止めて仕事をしていきたいと思っている。
でも、そう思っていても、どうしてもそれが叶わないことはある。
だから、そうならないように、誠心誠意努めたい。
2024年2月。
そんなこんながあって、2月には、働き続けることができなくなり、休職した。
そして、3月末まで休職して、そのまま退職した。
職場の方には、本当に申し訳なかったと思っている。
でも、当時の自分には、教員としてやっていけるだけのエネルギーは無かった。
その頃につくった楽曲が、「それでもなんとか生きてゆく」だった。
当時のデモ音源を辿ってみたら、当時の僕は、2月7日に、一気に一曲つくり上げている。
それほどまでに、あのときは、自分の内にあるものを楽曲として形に残さずにはいられなかったのだろうと思う。
今思い返してみると、本当に、あの当時の感情がそのまま楽曲になっているように感じる。
ここにいること
ここで生きていることは
一体誰のことを幸せにしているの
誰のためでなく生きていてもいいの
藤原 敬「それでもなんとか生きてゆく」
当時の自分は、本当に、このまんまのことを思って自問自答していた。
最後のサビの歌詞は、自分の内側から振り絞って出した言葉だった。
全てを投げ出したくなって
堕ちてゆく日もあるでしょう
それでも生きていくことに
しがみついているのです
藤原 敬「それでもなんとか生きてゆく」
僕は、このフレーズを歌いながら泣いた。
この頃のスケジュール帳をみると、いろんな方にお話を聴いていただいたり、いろんな場に出向いたりしている。
体調を崩していたから、キャンセルしてしまった予定もたくさんある。
けれども、自分なりに、もがき苦しみながら、次の道を模索していたんだなと感じる。
そんな中で、僕は、ありのままの自分を歌うという道を選び、シンガーソングライターとしての活動を始めた。
2024年3月。
シンガーソングライターとして活動するといっても、教員を辞めてしまったら、収入がなくなってしまう。
歌で生活費を稼げるはずもないから、何か仕事を始めなければいけない。
そこで出会ったのが、スタジオ事務職の仕事だった。
時給1,200円のアルバイト。
給料は、ボーナス分を合わせれば、教員時代の半分だった。
でも、当時の自分には、給料が半分になってでも、そちらを選ぶ必然性があったように思う。
きっと、この時期がなければ、僕は、教員に戻ることはできなかった。
そして、経験としても、とても貴重な経験をさせていただいたと思っている。
最初は、そもそも、受からないかもしれないと思っていた。
それくらい、当時は、自分に自信がなかった。
でも、面接を受けさせていただいて、即日採用された。
こんなやぶれかぶれでも、大学院まで進んで、それから教員の仕事をやってきたっていうのは、それなりに信用されるもんなんだなぁと、そんなことを思った。
自分では、そんな学歴とか、職歴とか、履歴書上の「実績」なんて、何の価値もないと思っているけれども。
それでも、そういうものが評価されてか、実際に面接をしたときの受け答えがきちんとしていると評価されてか、何にしても採用していただけたことはありがたかった。
2024年4月1日。
この日から、スタジオ事務職の仕事が始まった。
この頃つくった楽曲が、「エール」だった。
本当は、教員の研修会で歌わせていただく依頼を受けて、そのためにつくったのが、この楽曲だった。
でも、その依頼を受ける話は、結局、スタジオ事務職の仕事が始まってしまったことで叶わなくなってしまい、楽曲だけが残った。
新任の先生や、異動したばかりで不安を抱える先生、産休・育休・病休明けの先生、いろんな事情があって教員の仕事を離れてからまた教員として復帰することになった先生、同じ職場で継続して働くけれども年度が変わって職員も入れ替わり新しい気持ちで頑張りたいと思っている先生、そんな人たちを励ましたいと思って、「エール」という楽曲をつくった。
あそこじゃ冴えないヤツだったけど
今ここでなら輝ける
そんな場所が今ここにあるから
立ち止まっても 振り返っても
また一つ積み上げていく
藤原 敬「エール」
来年の4月には、またどこかでこの楽曲を歌いたい。
そして、この楽曲は、自分自身にも向けてつくられている楽曲だと感じる。
ここから始まる新しい 自分にエールを
今まで何度もつまずき 歩いてきたから
藤原 敬「エール」
「自分にエールを」という歌詞には、聴いてくださっている皆様が自分自身にエールを送れるようにという想いと、歌っている僕が自分にエールを送ってやっていきたいという想いの二重の意味を込めている。
2024年5月。
この頃から、ainiスクールでオンライン道徳授業をさせていただくことになり、毎月、オリジナルの授業をさせていただいた。
最初は、以前、雑誌『生活指導』にも取り上げていただいた【正直・誠実】の価値をめぐって考える「きんのおの」の授業をしたけれども、二回目以降は、価値項目を出発点にしつつ、完全にオリジナルの授業をつくった。
この経験をさせていただけたことは、本当にありがたかった。
2024年6月。
2024年の4月5日に路上ライブデビューして以来、定期的に路上ライブをしてきた。
けれども、ずっと路上で歌い続けることに限界を感じ、それまでにもお世話になったことのある池袋Hoteyesさんに連絡をし、そこでイベントを開催させていただく相談をした。
すると、とても良い条件でイベントを開催させていただけるお話をいただくことができ、7月からは、池袋Hoteyesさんで毎月イベントを開催させていただくことになった。
スケジュール帳を見返してみると、2024年6月4日に、相談に伺っている。
我ながら、なかなかの行動力だ。
8月だけはお休みをいただき、7月、9月、10月、11月と、計4回のイベントを開催させていただいた。
池袋Hoteyesさんには、心から感謝している。
2024年7月30日。
Hoteyesでつながる人生迷走仲間の会。
池袋Hoteyesにて、シンガーソングライターを始めてから、初めて、イベントを開催させていただいた。
本当に素敵な参加者の皆さまのおかげさまで、とても良い会になったと感じている。
この日の池袋Hoteyesは、とても、とても、暖かかった。
すごく良い場所だった。
そう心から思う。
参加してくださった皆さまには、本当に感謝してもしきれない。
また、2024年の6月から9月にかけては、『ディアローグ』で「『100の思考実験』読書会」を開催した。
思えば、『ディアローグ』で哲学的な思考にフォーカスを当てた会を開催させていただいたのは、これが初めてだったかもしれない。
そんなわけで、僕自身は、いろいろと戸惑いながら開催させていただいていたけれども、参加してくださった皆さまは、とても楽しんでくださっていたように思う。
本当にありがたかった。
結局、4回の開催で一旦終了することになったけれども、とても良い会だったので、また機会があれば再開するのも良いかもしれないと思っている。
参加してくださった皆さまには、心より感謝したい。
2024年8月。
この頃は、池袋Hoteyesでの第二回目のイベント「Hoteyesでつながるライブ&交流会」の準備と、子育て教育コミュニティ『つみき』で開催された「つみき文化祭」のマネジメント係の仕事をしていた。
このときは、人と一緒にイベントをつくるということの難しさをすごく強く感じた。
自分は、人と一緒に何かをつくるのは向いていないのかなと、真剣に悩んだ。
そんな中でも、仲間に支えられ、『つみき』代表の古内しんごさんに支えられ、なんとか、二つのイベントをやり切ることができた。
一緒にイベントをつくってくださった方々、イベントに参加してくださった方々、それを支えてくださった方々に、心より感謝したい。
2024年9月10日。
「Hoteyesでつながるライブ&交流会」を実施させていただいた。
こちらに参加していただいた方には、本当に心から感謝したい。
というのも、本番直前で出演予定だった方の出演辞退があり、イベントに参加してくださった方々にはご迷惑をおかけしてしまったからだ。
本当に申し訳なかったと思っているし、それでも参加してくださったことに本当に感謝している。
このイベントでは、バイオリンとのコラボや、音源作成と鍵盤ハーモニカでのコラボ、ツインボーカルなどなど、とても面白いコラボをたくさんやらせていただいた。
一緒にコラボをしてくださった方々にも、心より感謝したい。
「つみき文化祭」では、3チームのイベント出店のお手伝いをした。
僕の伝え方があまり上手くなくて、それぞれのチームで出店者の方に誠心誠意コメントをしたけれども、それがあまり伝わらなかったと感じることや、あまり受け止めてもらえなかったと感じることがあった。
それで、無力感を感じることもあった。
でも、最終的には、3チームとも、とても素敵なイベントを開催することができた。
出店者の方や、一緒に出店者を支えるフォロワーとして参加してくださった方は、本当にすごいと思った。
出店者の方は、それぞれに自分の持ち味を発揮して、とても素敵な場をつくられていたし、フォロワーの方は、僕よりもとても上手に言葉を選んで出店者の方を支えられていて、その姿から、たくさん学ばせていただいた。
自分自身のあり方には、たくさん課題が見つかったけれども、いずれにせよ、とても素敵なイベントを開催することができたことは、とても嬉しかった。
2024年10月8日。
「Hoteyesでつながる音楽×哲学対話の会」を開催させていただいた。
このイベントでは、大学院時代の仲間で、今でも一緒に読書会をさせていただいている西山渓さんにファシリテーターを依頼させていただいた。
このイベントには、スタジオ事務職で一緒に働く方々にも参加していただき、そのことがとても嬉しかった。
『ディアローグ』立ち上げ初期に学習会に参加してくださっていた方が群馬県から夫婦ではるばるイベントに参加しに来てくださったことも、すごく嬉しかった。
もちろん、他の参加者の方々が来てくださったことも、本当に、本当に、嬉しかった。
けれども、こうしていろんな方が僕のイベントを通して、暖かく交流してくださって、なんというか、そこで
新しい化学反応が生まれるということが、僕にはとても嬉しいことに感じられる。
僕がだいぶ無茶振りしてしまった哲学対話のテーマにも、西山さんがとても上手にファシリテーションをしてくださって、参加者の皆さまがとても楽しそうに対話をしてくださって、心から幸せを感じることができた時間だった。
もちろん、イベントの日は、毎回、心から幸せを感じているのだけれども。
2024年11月12日。
「Hoteyesでつながる ゆるっと対話時間」を開催させていただいた。
このイベントは、学習コミュニティ『ディアローグ』と、シンガーソングライター藤原 敬のセルフコラボレーションという形で開催させていただいた。
限定5名に人数を調整し、電子メモパッドを用意するという形で、対話に参加しやすくなるような工夫をした。
電子メモパッドは、Amazonの欲しい物リストを活用して寄付を募って購入させていただいた。
ご協力いただいた方々には、本当に心より感謝したい。
この日も、池袋Hoteyesには、とても暖かい空気が流れていた。
こういう場所を、ずっと、守り続けたいと、僕は思う。
だから、僕は、これからも、歌い続けていくし、対話の場をつくり続けていく。
そう心に決めた日だった。
限定5名という申し込みがしづらいイベントに、参加したいと伝えて参加してくださった皆さまには、心より感謝したい。
11月からは、ベネター読書会も始めた。
毎月一回、デイヴィッド・ベネターの反出生主義の著作について検討する読書会を開催している。
この読書会も、引き続き、続けていきたい。
読書会については、もう何年もやっている読書会もあり、そこでは、イヴァン・イリイチや、ガート・ビースタなどを読んでいる。
その読書会も、ずっと続いていることがとても嬉しい。
2024年12月。
ありがたいことに、僕は少しずつ元気になってきていた。
そこで、悩みに悩んだ末に、2025年1月から、小学校教員に戻ることを決めた。
とてもお世話になったスタジオ事務職の同僚の方々には、申し訳ない気持ちもある。
けれども、今の自分にとっては、この挑戦が必要なことだと思い、決断した。
小学校教員に戻ることに伴って、音楽活動も、池袋Hoteyesでのイベントは、半年に1回ペースでやらせていただくことにした。
そういうわけで、次回のイベントは、2025年3月1日(土)の「Hoteyesでつながる生誕祭!ライブ&対話」になる。
30名満席を目指しているので、是非、たくさんの方にご参加いただきたい。
12月は、スタジオ事務職の有給消化期間を使って、2025年1月からお世話になる学校にボランティアとして通った。
何の役職も役割も与えられずに、ただクラスに入るというのは、本当に楽しかった。
自分が必要だと思う支援をピンポイントでできるし、全体をみてあえて何もせずに観察するという時間も自由にとることができる。
子どもたちとは、他の仕事に干渉されずに、心置きなく一緒に遊べる。
校務分掌に煩わされることもない。
授業準備もせずに、ただ授業に一緒に入れば良い。
こんな楽しいことがあるだろうか。
2年生の担任を持つことになるのだけれども、2年生のクラスの子どもたちは、すっかり馴染んでくれて、1週間だけれどもボランティアとして学校に通わせていただけたことは、本当にありがたかったと思っている。
学校には心より感謝したい。
12月には、関西への一人旅もした。
会いたい人に会えて、本当に楽しかった。
自分の大切にしたいことが何かを感じることができた時間だった。
お会いしてくださった方々に、心より感謝したい。
来年に向けて。
そんなわけで、長くなってしまったが、僕の2024年は、こんな1年間だった。
来年、2025年は、次の4つを頑張っていきたい。
・小学校教員
・音楽活動
・『ディアローグ』
・教育思想史研究
小学校教員は、まずは楽しく続けること。
それが、アルファでありオメガであるという気がしている。
楽しくやっていきたい。
音楽活動は、参加してくださる皆さまに喜んでもらえるイベントをつくること。
これは、ずっと大切にしてきたことだけれども、引き続き、大切にしていきたい。
『ディアローグ』は、できることを増やしていきたい。
小学校教員に戻ることを考えると、「ゆるっと飲み会〜先生たちの七時間目〜」(教員の振り返りの会)をまたやりたいなと思う。
少しずつ、いろんな挑戦をしていけたらいいなと思う。
教育思想史研究は、本当に、論文を書きたい。
ずっと、書きたいと言いながら書かずにきたから、形に残すということにこだわっていきたい。
そのためには、きちんと研究の時間(文献や論文を読んだり、その内容を整理したり、そこから論文化して文章を書いたりする時間)を確保していきたい。