【原理のUD(ユニバーサルデザイン)化 連載⑩】なぜ「問題解決の順序」の原理をUD化すべきか
原理のUD(ユニバーサルデザイン)化とは何かを考えるための連載の第十弾です。
前回の記事では、原理のUD化を行うことの提案の流れを、連載の第一回から簡単に振り返りました。
そして、改めて、子どもの視点に立って教育に取り組むためには、原理のUD化を行う必要があるという主張をしました。
今回は、「問題解決の順序」を大切にしないことの問題点をあげることで、なぜ私が「問題解決の順序」を大切にすることを原理としてUD化すべきと考えているかを紹介します。
以前、私は、ある実践報告で、情緒的な課題を抱えた子どもが、嫌なことがあって怒りを爆発させたときに、その子どもにとって嫌だったことに対して向き合うことなく、怒りを爆発させたことを反省させてしまっている報告を聞くことがありました。
そのような実践報告を聞くと、私は、なぜその子にとっての嫌だったことを先に解決しなかったのかと違和感を覚えます。
たとえ、その子の嫌だという要求をすべて受け入れるわけにはいかなかったとしても、まずは、その子の嫌だと思ったことの問題を解決することが先決で、そのあとで初めて、怒りを爆発させたことに対する是非を問うことができるのではないかと、私は思うのです。
だから、そのあとで、子どもが怒りを抑えられたときに、教師が子どもに怒りを抑えられて偉かったねというような言葉をかけるのは、私からすれば、すごく欺瞞的なのです。
なぜなら、その教師は、その子にとっての本当の問題に向き合うことなく、教師の視点でその子を評価して(褒めて)しまっているからです。
そうならないために、子どものトラブルを解決するときには、「問題解決の順序」を大切にするべきだと私は考えます。
きっと、いろんな先生たちで、どんな原理をUD化するべきかを話し合えば、いろんな原理が出てくるでしょう。
それぞれの大切にしたい原理を出し合い、それを吟味し合うことで、子どもの見方は深まり、その見方をして子どもと関わることで、子どもの理解は深まるのです。
このように考えるため、私は、学校で原理のUD化を行うべきだと考えます。
これで10回にわたる連載を終わりにします。
毎回楽しみに読んでくださった方々、本当にありがとうございました。
この連載が、少しでも、読んでくださった皆さまにとって何かの役に立つものとなったなら幸いです。