攻撃の承認欲求と防御の承認欲求
承認欲求とは
承認欲求とは、「他者から認められたい、自分を価値ある存在として認めたい」という願望のことをさす。
自分の価値を自分で認めることは生きていく上で大切なことであるように思えるし、ある程度は他者から認められないと安心して生きていくことができないように思える。
だから、ある程度の承認欲求を持つことは必要なことであるように思う。
承認欲求の過剰
けれども、承認欲求は、過剰になると本来の目的を見失わせてしまうことがある。
たとえば、学校教育実践は、子どもにとって有意義な学びや場をつくることを目的とするものであるけれども、承認欲求が過剰になると、この本来の目的よりも、自分がすごい教育実践家であると認められることの方が上位の目的になってしまう。
そうすると、子どもにとって有意義な学びや場をつくることができていなくても、すごい教育実践家であると認められることで、あたかも目的を達成しているかのように見えるようになる。
これでは、本来の目的は見失われてしまい、本末転倒となる。
だから、過剰な承認欲求は問題を含んでいると言えるように思う。
もちろん、本来の目的を見失うことなく、承認欲求を満たすのであれば、何も問題はない。
ここであげた例でいえば、子どもにとって有意義な学びや場をつくることができていて、それですごい教育実践家と認められるのであれば、それは良いことであるように思える。
けれども、承認欲求の過剰は、往々にして、本来の目的を見失わせてしまうように思う。
承認欲求の過剰の判断は誰にもできない
また、本来の目的が見失われてしまっているのかどうかは、究極的には、この判断が絶対的に正しいとする最終的な判断を誰も下すことができないから、絶対的な正しさが不在の中で承認欲求の過剰に陥ってしまっていないかを確かめなければいけないという難しさがある。
たとえば、誰かが承認欲求の過剰に陥っているようにみえたとして、他者からは、そのようにみえると指摘することしかできない。
本当に承認欲求の過剰に陥っているかどうかは、その本人の内的な問題だからだ。
一方で、それならば本人なら絶対的な正しい判断ができるのかといえば、そうとも言えない。
往々にして、当事者というのは、周りが見えずに誤った判断をしてしまうということが起こり得る。
自分では、子どもにとって有意義な学びや場をつくるという本来の目的を達成することができていると思っていても、気がつけば、自分の承認欲求を満たすことが上位の目的となってしまい、本来の目的が置き去りになってしまうということがあり得る。
だから、承認欲求の過剰に陥っているかどうかは、その本人の内的な問題なのだけれども、その本人だから正しく判断することができるとは限らない。
承認欲求の過剰に陥らないためには
そういうわけで、承認欲求の過剰に陥らないためには、相互に尊重し合えるけれどもお互いに余計な忖度をすることのない他者との信頼関係のもとで、相互にチェック機能を働かせるしかない。
それでも、確実に防ぐことはできないかもしれないけれども、これが実現可能な方法の中では、最も有効な承認欲求の過剰に陥らないための方法であるように思う。
攻撃の承認欲求と防御の承認欲求
さて、承認欲求の過剰の話が長くなってしまったが、ここから、攻撃の承認欲求と防御の承認欲求の話に移ろうと思う。
これまでは、承認欲求は、ある程度までは必要なものだけれども、過剰になると本来の目的を見失わせてしまうという問題が起こるという話をしてきたけれども、その承認欲求にも、攻撃の承認欲求と防御の承認欲求という異なる性質があるのではないかということを提案してみたい。
攻撃と防御の意味
ここでいう攻撃と防御というのは、積極的(positive)と消極的(negative)という分け方に近い。
アイザイア・バーリンは、自由の概念を「積極的自由(positive liberty)」と「消極的自由(negative liberty)」に分けた。つまり、バーリンは、自ら何かを実現しようとして積極的に獲得しようとする自己実現の自由を「積極的自由」と呼び、何物かから余計な介入をされないという消極的な意味での不干渉の自由を「消極的自由」とした。
このバーリンの自由概念の区分における積極的と消極的と同様の意味で、積極的を攻撃、消極的を防御と言い換えてみる。
その上で、攻撃の承認欲求と防御の承認欲求という二つの承認欲求に分けてみよう。
なお、なぜ積極的と消極的というもとの言葉を使わずに、攻撃と防御という言葉に言い換えるかといえば、承認欲求が、他者との関係の中で、攻めることと守ることに結びついており、そのニュアンスを出したいと考えたからだ。
このことについては、さらに詳しくみていくなかで、理解されることと思う。
攻撃の承認欲求
承認欲求というのは、本来的には、攻撃の承認欲求のことをさすように思う。
「自分には価値があるということを他者から認められるために、自分を誇示する。」
この形が、承認欲求の発現の基本形だとしたら、承認欲求を満たすための行為は、自分の価値を相手に示すという攻めの姿勢を含んだものであると言えるように思う。
これは、多くの場合、自分が他者よりも優れているということを示して、自分を他者よりも上に位置付けるために行われる。
それによって、関係性は、横並びの対等な関係から、縦並びの序列的な関係に移行する。
防御の承認欲求
一方で、他者から軽視され、ぞんざいに扱われることに対する異議申し立てとして、自分を誇示することが必要になるということがある。
たとえば、対等な姿勢でいたいのに、相手が攻撃の承認欲求を満たそうとして自分を上に位置付けて話をしてきたら、それを不当に感じて、相手から下に位置付けられることを防ぐために、自分の価値を相手に示さなければいけなくなるということがある。
そういった場合、往々にして、相手は自分を上に位置付けることに固執しているため、相手から下に位置付けられないために自分の価値を相手に示してもうまくいかないことが多いように思うが、このように必要に迫られて、気がついたら自分の承認欲求を満たすための行為に誘われているということがある。
これを、防御の承認欲求と呼ぶ。
関係性は、縦並びの序列的な関係から、横並びの対等な関係に戻ろうとする。
攻撃と防御の境界線は曖昧
このように書くと、攻撃の承認欲求は悪いもので、防御の承認欲求は良いものであるとの印象を受けるかもしれない。
しかし、攻撃の承認欲求と防御の承認欲求を、一旦はこのように切り分けた上で、本当に両者は切り分けることができるのかということを問い返してみたい。
たとえば、侵略戦争は許されないが自衛のための戦争は許されるという際に、侵略戦争と自衛のための戦争の境界線をどこに引くかということは、曖昧であるように思える。
世界には、自衛のための正義の戦争と称して侵略戦争をしてきた歴史が多くあるように思う。
そのように考えると、防御の承認欲求であるという仮面を被りながらも、実は、それが攻撃の承認欲求へと転化するということは、往々にしてあり得ることであるように思う。
少なくとも、先に例としてあげたように、攻撃の承認欲求への反応として防御の承認欲求が作動したとしたら、それはすでに、攻撃の承認欲求の土俵に片足を乗せてしまっているようにも思える。
誰もが攻撃の承認欲求を秘めている
さらにいえば、防御の承認欲求というのは、潜在的な攻撃の承認欲求であるとも考えることができる。
普段は、あえて他者と衝突しないように攻撃の承認欲求を振りかざさないようにしているが、本当は他者から認められたいという承認欲求が自分の内側にはマグマのように沸々と沸き立っていて、他者から攻撃の承認欲求を向けられたときに、それが外に飛び出して顕在化する。
そのように言うこともできるように思う。
つまり、攻撃の承認欲求と防御の承認欲求という二つの承認欲求への区分は補助線に過ぎず、本来的には、ただ個々人が攻撃の承認欲求を内に秘めているだけである。
それが露呈したときに、お互いを刺激し合いながら燃え上がる。
そういうものだと考えることもできる。
防御の承認欲求からの反論
ただし、一方で、防御の承認欲求を擁護する側からすれば、自分から火を吹かないようにしているのに、それを自分から火を吹いてしまっている人と同様に位置付けられるのは納得がいかないとする応答もあり得るように思う。
つまり、攻撃の承認欲求を発現させないというのは、他者と良い関係を築くためのソーシャルスキルであり、そのソーシャルスキルを駆使して良好な関係を築く努力をしているのに、潜在的に攻撃の承認欲求を持っているという点ではそれを怠っている人と同じだと言われるのはどうなのかという反論があり得るということだ。
この反論は、真っ当なものであるように思える。
ただし、自衛のための正義の戦争と称して侵略戦争が行われるということが往々にして起こり得るという先にあげた例のように、防御の承認欲求は、往々にして、攻撃の承認欲求へと転化するものであると考えると、この反論を擁護するためには、防御の承認欲求があくまでも防御であるという姿勢をとり続けられるのであればという但し書きが必要になるだろう。
そして、どこまでが防御の承認欲求で、どこまでが攻撃の承認欲求なのかということの境界線は曖昧であることを考えれば、あくまでも防御であるということをどれだけ正当なものとして主張できるかは定かではないと言えるように思う。
おわりに
今回の記事では、①承認欲求とは必要であるが過剰になると問題を含むということ、②承認欲求は攻撃の承認欲求と防御の承認欲求に分けて考えられるのではないかということ、③一旦は分けた攻撃と防御の区分も実は曖昧さを含んでいること、について書いた。
だとすると、結局、自分の承認欲求とは、どのように向き合っていけばいいのだろうか。
そんなことを考えてみても良いかもしれない。