偽りの主体性
今回も、過去のアメブロの記事を転載した内容となっている。
算数少人数の教員をやっていると、ここでかつての自分が批判したような「スタンダード」に近い授業にならざるを得ないところがある。
それを乗り越えるような授業をするためには、相当に担任と話さなければいけなくなるだろう。
そう考えると、私は、算数少人数の教員をやっていながら、あまり、そのシステムが良いと思っていないような気もしてくる。
やはり、いろんな教科を横断的に教えている担任だからこそ、いろんな教科の学習や生活が有機的に結びついていって豊かな学びになるというような学びを保障できるという側面があると思ってしまうのだ。
それにしても、ここで指摘した偽りの主体性の問題は、今になってもいっこうに改善される兆しは見られないように思う。(むしろ、欺瞞性が強くなっているような気さえする。)
どうにかならないものだろうか。
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2014年頃から中央教育審議会で「主体的・対話的で深い学び」が謳われるようになって以来、学校現場では、どこでもこの言葉が使われるようになった。2017年から2018年にかけて改訂された新しい学習指導要領でも、「主体的・対話的で深い学び」はキーワードとして位置づけられている。
この言葉がこんなに多くの場所で使われるようになったのはなぜなのだろうか。それは、誰にとっても、ひとまずは受け入れられる言葉だからであるように思う。しかし、その受け入れ方については、受け入れる人の立場によって大きな差があるように思われる。
そこで、今回の記事では、「主体的・対話的で深い学び」という言葉の二つの受け入れ方を紹介し、教育行政の押し進めている「主体的・対話的で深い学び」の受け入れ方の問題点を、授業スタンダードと初任研のあり方を参照しながら考えてみよう。
まず、「主体的」という言葉は、広辞苑で調べると、次のような説明がされている。
「ある活動や思考などをなす時、その主体となって働きかけるさま。他のものによって導かれるのでなく、自己の純粋な立場において行うさま。」(「広辞苑無料検索」https://sakura-paris.org/dict/ 2020年5月27日7:16閲覧。)
哲学事典や社会学事典など、専門的な事典を引くまでもなく、「主体的」という言葉は、「自己の純粋な立場において行う」という意味をもっている。つまり、自分で考えて行動することを、「主体的」というのである。
このように、自分で考えて行動することが主体的であるとすれば、その反対のあり方は、他人の考えに従って行動することになる。そうであるとすると、盲目的に他人に従って行動するのではなく、自分で考えて判断し、自分にとってよいと考える学び方を発見して学びを深めていくことが、本来的な「主体的・対話的で深い学び」であるということになるだろう。画一的な教え込みの教育に反対し、子どもの自由な探究を尊重しようとする教師は、この意味で「主体的・対話的で深い学び」という言葉に賛同する。
本来的には、「主体的」という言葉の意味からして、「主体的・対話的で深い学び」には、上記のような解釈しかあり得ないのであるが、現在、教育の世界では、「主体的・対話的で深い学び」のもう一つの解釈が広く行き渡っている。それは、他者から目標を定められた範囲内での主体的な学びという解釈である。この解釈からすれば、「主体的・対話的で深い学び」とは、学び手が自らの関心に従って自由に自ら学ぶことではなく、学び手が与えられた目標に従って自らその目標に向かって学ぶことになる。まさに、現在、教育行政によって押し進められているのは、この意味での「主体的・対話的で深い学び」である。
上記の話をまとめよう。これまでの話をまとめると、「主体的」という言葉の意味をめぐって、二つの受け入れ方があるということだった。一つは、自分で考えて行動するという意味での主体的。もう一つは、与えられた目標に自ら向かっていくという意味での主体的。このような二つの受け入れ方があるということだった。
しかしながら、与えられた目標に自ら向かっていくという後者の意味での「主体的」という言葉は、本来の「主体的」という言葉の中核的な意味を喪失している。なぜなら、自分で考えて行動するという前者の意味での「主体的」は、目標を自ら選択するところにこそ意味があるからである。
教育行政によって押し進められている「主体的・対話的で深い学び」は、まさに、目標を自ら選択する自由を制約することによって、本来的な意味での主体性を剥奪している。それは、偽りの主体性であると言わざるを得ない。
では、教育行政によって推し進められている「主体的・対話的で深い学び」における偽りの主体性は、どのような形で現れているのだろうか。以下では、授業スタンダードと初任研という二つの例を通して検討してみよう。
まず、都道府県や市町村で推奨されている授業スタンダードのうちに、偽りの主体性は現れている。授業スタンダードという言葉を明確に使っているかどうかは別として、現在、都道府県や市町村の多くの教育委員会では、授業の方法に関するある定まった形式を推奨している。それぞれの自治体によって細かな言葉は違うものの、そこで示されているのは、「めあて」を立て、めあてに即した「展開」をし、最後に「まとめ」をするというものである。より具体的に言えば、「めあて」で目標を設定し、その立てられた目標に向かって授業を「展開」し、最後に目標が達成できたかどうかを振り返ることで「まとめ」をするというものである。このような授業においては、目標はあらかじめ子どもが設定する前に決められている。子どもの言葉でめあてを言わせることが重要視されているとしても、子どもが教師の想定する目標を自分から言うように誘導することが求められる。子どもの発言によって授業の目標が変わったりはしない。さらに、目標が確実に達成できたことを、授業の最後に振り返りを行うことによって確認する。こうして、定められた目標に向かって、子どもが、確実に、学び、達成することをよしとする授業のあり方が提唱されているのである。確実に学び、達成するといえば、一見、とても良いことであるように思えるかもしれないが、学びが既存の枠の中に制限されており、そうした授業においては、教えることが予定調和的にならざるを得ない。
一方で、目標に自ら積極的に向かっていくという意味で「主体的」であることは推奨される。学校目標では、「自ら学ぶ子ども」という目標を掲げている学校が多いが、これは、教育行政による「主体的・対話的で深い学び」の推奨を受けてのことだろう。結局、目標はすでに定められてしまっているため、与えられた目標を達成するために積極的に学びに向かうこと子どもを評価することになる。実際、教員にとっても、教員側が定めた目標に向かって積極的に学んでくれる子どもは、扱いやすくて都合の良い子に映るだろう。(私からすれば、子どもがそのような子に育ってしまってはつまらないと思うが。)外から目標を押しつけながら、その押しつけた目標に自ら向かっていく積極性を主体的であるとして評価する教育行政の考えは、結局、学校教育の現場の教員にとっても、都合の良いものとして受け入れられてしまう性質をもっているのである。
このような目標を外から設定して押しつけながらも、その目標に向かって自ら積極的に学ぶことをよしとする偽りの主体性の考え方は、初任研における初任者への教師教育の中でも採用されている。先日、第2回の初任研で次のような趣旨の課題が出された。
「あなたは組織の一員として、先輩教員からどのように学び、1年次教員として、どのように主体的にかかわっていくか。」(この質問項目については、内容が大きく変わらない範囲で一部省略・修正を施してあります。)
1年次教員は、先輩教員から学び、主体的にかかわっていく存在として位置づけられている。たしかに、初任者が同僚のベテラン教員から学ぶことが多くあるのはたしかである。しかしながら、この課題においては、ベテラン教員は初任者教員が学ぶべきことをあらかじめ知っており、初任者教員は学ぶべきことを知らないということが前提とされており、初任者教員は、その学ぶべきことを自分から積極的に学ぼうとすることが求められている。ここでも、学びの到達点としての目標は、ベテラン教員がすでに知っており、ベテラン教員に提示された目標に沿って、初任者教員が自ら積極的に学びに向かっていくことが求められているのである。つまり、初任者教員に対しても、偽りの主体性が求められているといえる。当然、ベテラン教員がすでに知っているとされる目標とは、教育行政において教師にとって必要と考えられている目標であるため、結局、初任者は、教育行政によって定められた目標に向かってに自ら積極的に学ぶことが求められることになるのだ。初任研においても、初任者は偽りの主体性を強要されている。
そもそも、この課題は、初任者研修で、「1年次教員として」のあり方について考えさせていることが問題である。なぜなら、初任者が学ばなければならないのは、「1年次教員として」のあり方ではなく、「教員として」のあり方だからである。「1年次教員として」のあり方は、2年次教員になったときには意義のないものになってしまう。そうではなく、初任研では、この先、「教員として」働いていく中でずっと必要とされる知識や技能、考え方などを学んでいくべきであるはずだ。初任者に対して、「1年次教員として」のあり方(まだ教員の仕事について未知であるから教えを乞わなければいけない存在としてふるまうというあり方)を教えることは、あまり意義がない。さらに言えば、一人の人格として認めていない印象を受けるという点で、人権侵害でさえあるように思える。
では、なぜこのような問題のある初任研になってしまうのだろうか。それは、学校教育というもの自体が、パウロ・フレイレの言うところの「銀行型教育」の考え方にもとづいて動いているからである。「銀行型教育」の考え方とは、学ぶものをお金(知識)を投入する空の容器であるかのように見立てて、教えるものがそこにお金(知識)を投入していくという構造で学びをとらえる教育の考え方である。この考え方からは、多様な個性をもつ者同士の相互作用の中で、多様な変容が起こり、それが学びとして結晶するという発想は生まれない。このことが問題であると考えられる。つまり、何もできず、何も知らない子どもに、すべてを知っている教師が、子どもに必要なすべてを教えるという発想で子どもに対する教育は行われており、教師教育も、何も知らない初任者に、すべてを知っているベテラン教師が、初任者に必要なすべてを教えるという発想で行われている結果、子どもや初任者のもつ多様な個性は発揮されず、多様な個性の発揮によって豊かになるはずの学びが成立しなくなってしまっているのである。フレイレの「銀行型教育」批判は、すでに古典的な理論となっているが、日本の学校は未だにこの古典的な理論で説明できてしまうような問題を抱えている。
これまでの議論をまとめて終わりにしよう。今回の記事では、「主体的・対話的で深い学び」の二つの受け入れ方について、「主体的」という言葉の意味解釈の違いに着目して紹介した。「主体的」という言葉の意味は、一つは、自分で考えて行動するという意味で、もう一つは、与えられた目標に自ら向かっていくという意味であった。現在の教育行政や学校教育現場では、後者の意味で「主体的」という言葉を解釈して、「主体的・対話的で深い学び」を押し進めるという姿勢が散見される。そして、その問題は、フレイレの「銀行型教育」の考え方(何も知らない人が、すべてを知っている人から、知る必要があることを教えられるという教育の考え方。)で学校が動いていることに起因するということを確認した。そして、その考え方では、多様な個性が発揮されず、豊かな学びが成立しないということを確認した。
「主体的・対話的で深い学び」は、このように本来的な主体性の意味を剥奪されていて良いのだろうか。私は、自分で考えて行動するという本来の意味での主体性をこそ重要視すべきだと考える。なぜかというと、佐伯胖も指摘しているように、学びとは、もともと、自らの問題意識にもとづいて、学びたいことを自由に深めていくものであるはずだからである。(佐伯胖『学びの構造』東洋館出版社、1985年。)では、本来的な主体性を取り戻すためにはどうすればいいのか。この問いについて深く掘り下げて考えていくことが必要である。