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取り戻したもの、失ったもの

 取り戻したのはγ-GTPの数値がであり、失ったのは「文章を書く」という習慣であった。

 一月に受けた人間ドッグで、私は衝撃を受けた。
 肝臓が再検査となってしまったのである。体調に異常は感じないが、肝臓は沈黙の臓器と言われている。肝臓が悲鳴をあげた時、私の肝臓は死を迎えるのである。
 これは本格的に生活習慣を変えねばならぬと決意した。

 始めたのは毎日の晩酌の習慣を排除することである。もちろん無理は禁物である。
 タイミングの極めて悪いことに、人間ドックの数日前に懇願されて結果としての新聞契約更新で届いたアサヒスーパードライ一ケースがあったものの、ノンアルコールビールとノンアルコールサワーを一ケースずつ注文し、徐々に切り換えていき、アサヒスーパードライが無くなった時に、完全に晩酌習慣を廃することとした。

 一度決意したことを完徹するなどというマッチョイズムは唾棄すべきものだ。
 一週間に一回程度、長い時は三週間に一回。友達が少ないせいで数少ない飲み会の時は浴びるほど飲む、という現実的な妥協をして、とにかく酒量を抑えるようになり、毎日の晩酌という習慣から脱することができた。

 ただ体重は思ったほど減らない。
 五月くらいに見つけたのは十六時間ダイエットである。十六時間は過酷なようで、夕食後に水以外何も口にせず、朝食を抜き、昼食と夕食の間は好き放題飲み食いする。コカ・コーラも制限しないというストレスフリーなダイエットを試みた。
 初めて成功した。
 日々は増減あれば、明らかに体重は徐々に減っていった。

 そして、忘年会シーズン前に今年度の人間ドッグを挑むことにした。
 体重は四キロ落ち、γ-GTPや中性脂肪など、あらゆる数値が改善した。
 私は健康を取り戻した。

 光るところには、影ができる。
 すっかり「文章を書く」という習慣を失ってしまった。
 「書きたい」もいう欲求も消えそうになっている。

 車はガソリン。電車は電気。私の文章に対するエネルギーはアルコール。
 ほろ酔い。
 これこそが私の文章への活力だったと痛感する。
 生活習慣もだが、今年仕事のスタイルを変えたこともあり、いささか酒と文章から離れていた。

 先週一週間、家族がインフルエンザに罹り、不幸中の幸いとして私は健康であるのに出社停止であった。
 会社の出社率30%というルールを今月満たすために、今日は十日以上ぶりに出社した。

 フリーアドレスの空席を探していると、新卒入社前のアルバイト時代に私の仕事を手伝ってくれ、その割には一切ご飯に連れて行かなかった鶴谷くんと社内結婚した百凪さんが挨拶をしてくれた。
 マレーシアへ転職し、鶴谷くんに付いてマレーシアへ引っ越し、完全リモートワークとなっていた百凪さんが、鶴谷くんの帰国に伴い、東京勤務に戻って、おそらくその初日の出社であった。
 百凪さんと話したことで、鶴谷くんと仕事で文章を書いていたことを思い出した。

 家に帰る理由もないので、そのまま夜まで会社にいた。
「こんな時間までいるなんて、どうしたの?」
「明日、雪が降るのでは?」
 陽が落ちても会社にいる私を、まるで珍しいものを見ているかのように同僚に冷やかされながら、私は20:21発の東京駅始発の埼玉方面行き列車に、ちょうど良いよりも少し早い時間まで留まる。幸いなことに、時間を潰すにはちょうど良い仕事があった。

 東京駅に着く。19:52。
 丸の内北口から地下に降りる。ビアバーがある。
 エールビールを注文する。JREポイントカードの提示を求められ、アプリの再ダウンロードのせいでモタモタする。店員がカタカタと指を机に叩く。
 出てきたエールビールはよく冷えていた。
 私は、一人である。会話する相手はいない。向き合うのは、目の前にあるジョッキのみである。
 全力で私はジョッキのエールビールを求め、エールビールもまた全力で応じる。
 一分も経たずにジョッキのエールビールは全て私の胃に収まる。
 何となく、久しぶりに文章を書こうかなという気になる。

 始発電車の窓際ボックス席に座り、スマホを取り出し、文章を書き始める。
 三十分では書き終わらず、最寄駅に着く。
 息子が通う塾の一階にサイゼリアのネオンが目に入る。
 サイゼリアワインを飲みながら、続きを書くべし。
 妻にLINEする。
「どうしてもサイゼリアワインを一杯飲みたくなったので寄ってく。」
「今日の晩御飯は昨日の韓国マーケットで買った出来合いのもで明日にしてもいいから、ついでに食べてくれば。」

 白ワインデカンタ(250ml)、イカ墨パスタ、ラムの串焼き。
 ラムの串焼きは美味すぎるが、サマルカンドで食べたラムのシャシリクを思い出す、そういえばウズベキスタン旅行記は途中で放棄した、などと思い出す。
 白ワインマグナム(1500ml)を頼まなかったのは、己に僅かに残された良心だなあと思いながら、この文章を仕上げる。

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HK
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