二◯二四年の冬の朝である。
灰色の重い雲が垂れており、昼から雪が降ってくるらしい。大雪になるかもしれないという。
彼は朝のうちにいろいろ整えなければならないと断固決意し、家から十分ほどのコンビニで仕事中のお供として森永のラムネとコカ・コーラ500ml缶を、そして雪見酒と勇んでCOEDOビールとスコッチウィスキーハイボール、7プレミアム ヨセミテ・ロード 白250mlの缶を買い求め、それらの入ったビニール袋ブンブン振りながら歩いていた。
住宅地の中を流れる何も変哲もない小さな川沿いの道。落ちている犬の糞を踏みしめないか恐れながら、これからの人生をどう生きるかと、哲学の道でもないのに、一丁前に思索に耽けている。
「また来たか。」
スマートウォッチの通知に映るLinkedInのアイコンが、彼の思索をかき乱した。
スマホをポケットから取り出し、LinkedInのアプリを開き、Kellyから送られてきた次のメッセージを指をスライドさせて選択し、コピーした。
彼は、DeepLアプリにペーストし、その翻訳結果を読んだ。
ヘッドハンティング……。
乙女が白馬に乗った王子の現れるのを待つように、もう先の見えているくたびれた中年サラリーマンの彼は、いつの日か劉備玄徳が彼を迎えにきてくれることを夢見ている。己を三顧の礼にて迎えられる諸葛亮孔明に例え得る自己認識の欠如と、それに反比例して高みを極める傲岸不遜さは傍に置くとして、行動力も実行力も乏しい彼は夢想するのである。
彼はヘッドハンティングという単語の醸す甘美な調べに酔ったのだろう。フリーエージェント宣言をするプロ野球選手がよく言う「他球団の評価を聞きたい」という言葉を口にしそうになる。
仕事柄、彼はLinkedInのアカウントだけはずっと昔に作っていた。LinkedInとは企業の採用活動やユーザーの転職活動でよく使われているビジネス型SNSである。
コロナ禍。日本という狭い市場に留まる閉塞感。何を勘違いしたのか、彼は沃野はグローバルにありと、彼は英語でプロフィールを書いた。
彼の義務教育の敗北の象徴たる惨憺な英語力は、海外の大学院へ行った元同僚の有山くんから大いに薫陶を受け、その忠実な教え、つまり典型的なぎこちない翻訳調の日本語をあえて書き、それを翻訳アプリに入れれば、それっぽい英語を返してくれることを実践。そして、プロフィールが七割ほどできたところで放置した。彼は愛すべき面倒くさがりなのである。
Kellyから彼の元へ友だち申請が飛んできたのは一月ほど前であった。通知が残り続けるのがイヤな性分であり、またスパムではなさそうなので、数日前に友だち申請を承認したところ、頻繁にメッセージが飛んでくるようになった。
英語による当意即妙なやり取りをするには、彼の英語力はあまりにも及ばないため、そういうやりとりを発生させんと、彼はひたすらKellyからのメッセージに無視を決め込んだ。
「英語でなんて仕事してやるものか」
それは、日本語の話せない彼の同僚とのコミュニケーションにおけるチキンレースに勝ち続け、相手に日本語を話させてきた彼の誇りとの闘いでもあった。
彼はぶつぶつと歌った。
「秩父おろしに颯爽と、輝く我が名ぞ勝男タイガー、おうおうおうおう俺は虎」
犬を連れたおばさんが振り返り、不審者を見る視線を彼に送った。
昼過ぎに雪は降り始めた。
彼はとりあえず、Kellyのメッセージに無視を決め込み、一仕事を終え、すっかり降り積もり、街灯の光が反射して明るい窓の外を眺め、晩酌の雪見酒を楽しんでいた。
その落ち着いた寛ぎのひとときを打ち破る通知が彼のスマホに届いた。
彼は再びDeepLアプリにKellyのメッセージをコピペして読み、LunkedInのメッセージ画面に戻り、テキストを入力し始めた。
彼はKellyこそが劉備玄徳だと、ついに思い至ったのか。
または、このままでは虎になってしまう彼の最後のあがきなのか。
いや、惨憺たる英語力をKellyに見せつけることによる、彼女の諦めを期待してのことである。