東京駅始発20:21発 小金井行き
「いま、風の音がした。」
私の座る背後の、社長室前のデスクに一人座る阿藤さんの声がした。
退勤を打刻し、角ハイボールの井川遥とジムビームハイボールのローラが表裏となっている毎夏愛用している団扇を個人ロッカーにしまい、リュックを背負わんとした矢先だった。
窓際らしく、すぐそこにある窓の外を見ると、大粒の雨粒が強風によってガラスを叩いていた。
私はデキるビジネスマンの絶対条件として用意周到準備万端、鞄の中にはきちんと折り畳み傘を常備しており、デキないビジネスマンの証明としてその折り畳み傘はすっかり中年太りした身体のサイズからするとあまりに小さすぎ、肩や袖、リュックを大いに濡らす。要するに、この雨では全くの役立たずの無用の長物である。
雨に濡れたくないシティボーイとして、されど退勤した以上、もう一度リュックからパソコンを引っ張り出して仕事を再開する気はさらさらない。リフレッシュ休暇の旅先の宿探しをスマホでダラダラしていると、会議室に篭っていた最要さんが私の対面の席に戻ってきた。
「もう仕事を終えられるのですね。」
「そ。」
視線をスマホから話さず、簡素かつ合理的な返答をすると、最要さんは私に問いかけた。
「ところで、あれから十ヶ月経ちましたが、出版の進捗は?」
【参考】
ハッとして、最要さんの顔を見ると、最要さんは畳み掛ける。
「そういえば、最近noteの頻度も劇的に落ちましたね。」
「最近は書くモチベーションもネタもない。」
そう言い訳しつつ、私は己が野心を隠した。
いままさに青雲の志を抱き、いつ終わるともしれない遥か彼方なる超大作を書き始めていた。されど、起承転結の起すらまるで立たぬうちに書き始めたが故に115字しか書いていない現状に、羞恥心のある善良な一市民として「書いている!」と豪語などできようはずはない。
窓の外を見ると、雨は降り止んでいるようだった。
三十六計逃げるに如かず。
朝モンスターエナジーをグイと飲み、今は蒸しパンを頬張りながらパソコンに向かう香林坊さんを横目にし、そそくさと退勤する。
あと三○分粘ると、私を着席にて埼玉へ誘う東京駅始発20:21発小金井行きにちょうどいい時間であったことに気づいたのは、エレベーターに乗った後であった。外に出ると、まだ強い雨粒が暗い空から落ちていた。
早まったかもしれない。しかし、戻るとサンドバック。
小さな傘に身を小さくして、地下鉄の駅へとぼとぼ歩く。肩や腕、足元は早々に濡れた。
東京駅に着いた。
あと二十五分待てば、埼玉まで座れる。
時間潰しのため、構内を彷徨う。
地下に降りると、ビアバーがあった。
ただちに吸い込まれるのは自明のことであった。
よく冷えた生ビール。
この一口で、今日の全てが過去のものとなり、そして慰労となる。
駅でちょい呑みする時代となった。
まだ宇都宮線、高崎線の全ての電車が上野駅始発であった時代、車内にはポツポツとキオスクで買った缶ビールや缶酎ハイをプシュッとするサラリーマンがいた。
ある時、四人向かい合わせのボックス席に座る、それぞれ見知らぬサラリーマン全員が各々プルタブをプシュッとし、グイっとした。
いい光景だった。
上野東京ラインが開通し、東海道線から直通することで、昭和から続いていたサラリーマン文化は、すっかり廃れてしまった。
もう帰りの電車で缶ビールや缶酎ハイをプシュッとする発想すら湧き起こらない。
発車十分前にホームに上がると、ちょうど東京駅始発20:21発 小金井行きが入線してきた。
向かい合わせのボックス席の窓際に座った。
片手には缶ビールも缶酎ハイもない。
仕方ないので、本稿を書き始めた。東京駅始発20:21発 小金井行きは埼玉へ。