木下長嘯子「九州のみちの記」原文
この作品は1592年、長嘯子が正月十五日に朝鮮出兵の先陣として京を出発し、四月初旬に名護屋に至るまでの記録です。なお、長嘯子は七月二十三日に大政所(秀吉の母)の病のため帰京しています。
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底本:「校注挙白集」藤井乙男著、文献書院
1930(昭和5)年
九州のみちの記
木下長嘯子
大相国もろこしかたむけさせ給はんとて、天正の末つかた、筑紫に御出有へきよし、事さたまりにければ、日の本の兵のこらす供奉す。自もむ月の中の五日比に末をおもひ立なむとしはへりけるに、人のもとよりおんそ調して給ぶとて、此二首をなんくはへられたりける
たまほこのみちの山かせさむからはかたみかてらにきなんとそおもふ
あまたには縫かさわゝとから衣おもふこゝろはちへにそありける
彼おんそ、えならぬものかたりのこゝろを筆のかきりうつくしくかきて、とる手もくゆるはかり匂ひだきしめられたり。かへし
きみならてみちの山かせさむしともたれかいとはんたひのそらまて
こゝろさしふかきいろ香のから衣かへすくもかたみとやみん
かゝる情のありかたさよと、あるはなみたのふるきわさまておもひよせられ侍る。さて須磨明石の月をなかめつゝ、はりまの国にしるよしゝてまかりて廿日あまりとゞまりぬ。そこにしたしかりける人のもとへ、おもしろかりけるさくらにさして
いてゞ行あとなくさめよさくら花われこそたひにおもひたつとも
かくよみをきて、日かすをへつゝゆくまゝに、備中のくに、きひの中山につきぬ。つれくさのあまり、こゝかしこみありきはへりて、彼ほそ谷川の辺にいたりて
けふそみるほそ谷川のをとにのみきくわたりにしきひの中山
その水上にのほりてみれは、ちいさき池のなかよりたえくぃつる清水なりけり。かの清水、みな月の比ほひもたゆることなしとなんいへり。その谷川のひろさ筆築《ヒチリキ》といふものゝなかさはかりなんありける。其夜は神主の家にとまりぬ。翌日は雨そほふりけれはゆきもやらす。其所に宮つくりし給ふは、すなはちきひつ大明神と申奉る。火たきやに釜ふたつをならへすへをきたりける。そのかまひとつ、神供をとゝのふる毎に、おひたゝしくなりとよむよしをきゝで、のそみはへりける。まことにいかつちなとのやうにしはしとゝろきてきこえけり。これそ神秘となんいひつたへし・七れより備後のともといふ浦ちかきわたりに十日あまりとゝまりぬ。そのほとかのうらみにまかりぬ。そこに一夜侍りて、明方の浦の景気をみやれは、ちかきねだりの嶋ともうすかすみ、こきくるふねもよしあるさまなり
わすれめやかすみのひまのいそつたひこきいつる舟のとものうらなみ
さるうたよみたるよし主にかたりけれは、感してこれをかきとめける。さてみしとものうらのむろの木は、とこよにあれとゝよめるは、むかしはこのうらにありつといひりたへたれと、今はあとかたもはへらねは、さたかにしる人もさふらはす。されとあの磯にありしなとふるき人は申をきける、いさゝせたまへをしへたてまつらんといふほとにヽまかりたれとことなる見ところもなく、たゝ波のよせくるのみにてそありける。かく名ある木もあとかたなく、何束もむかしにかはりゆくこそもの毎に悲しくははへれ。其かへさにしる人ありけれは、かしまと云所にたちよりけり。主さま/\にもてはやし、いさ此あたりにしかるへきかゝりあり、鞠なんつかうまつれとしゐて申けるほとに、さりかたくおほえて、装束なととりよせ、日暮るまてまりけなとしてあそひける。其あたりなる男女 とも、みなあつまりきゐてみけり。田舎にはかゝることもめつらかにやおほえけん。さて月の山の端を澄のほりてさやかなるに、ふるさと人もかくやなかむらんとおもひいてゝ帰(り)にけり。玉ほこのみちもはるかならねは、いくはくもあらぬに束つきぬれと、内に人(る)へくもおほえて、宿のまへなりける、辻堂のこほれかゝりたる、いたしきの上に、束ふくるまで、月やあらぬはるやむかしとひとりこち居てはへりけり。あくれはふるさとへ文つかはす。したしかりけるともたちのもとにかくなむ
おもひきやおなしこの世にありなからまたかへりこぬわかれせんとは
おなし国、をのみちといふ所より舟にのりて、おもしろき浦/\にこゝろをなくさめて、すこしふるさともわすれぬへきこゝちしてなんくたりけるに、春の物とて雨音ゝきしけり。日もやう/\暮なんとすれは、人住所にもあらぬ、わっかなる沖の小嶋に舟よせて一夜寝にけり。たくひなくものこゝろほそう、うきねのあはれも身にしられてヽまとろむとしもなく、なみたのおりしりかほなるに、時しもあれ、篷もる雫のたもとにくはゝりけるをみて
夜もすから篷もりあかすはる雨にうきねのたもとなをしほるなり
見もはてぬうきねの夢の行すゑをさそひてかへるなみのをとかな
なみ路はるかにわけ過つゝいかゝありげん、此ほとのっかれにや、眉のうへおもくなりヽこゝろむすほゝれ、たゆたふ舟のうちもいふせくうるさかりけれは、すこしこゝろやすめんと童ひとり供 し、あたりの嶋にあかりて、こなたかなだ見ありきけれと、稀にも人のゆきかよひけるあとさへなかりけり。波のをとのみすこう聞えて。いとゝ袖のうへもしほれかちなるにヽむかしいかなるものゝしはさにかありけん、五丈はかりありける石の面に
あはれなりくも路っらなるなみのうへにしらぬ舟ちをかせにまかせて
といふ、ふるき哥をそ書つけゝる。また人もまとひきて、かゝる所のあはれを身にしりけるよといとかなしうをしはかられぬ。其はまにおりゐて、手すさみなから、ちいさくうつくしき貝とものおほくあるをひろひもちて、やう/\もとの舟にきけり。隣の国安芸のいっくしまに詣て、一とせ筑紫にくたりしとき、やとりける坊の、主をたづねはへりけれは、おとゝし身まかりぬと、弟子なりける法しのかたりける。今おもへは其比七そしはかりになん見えっる。うらむへきよはひならねと、またかへりこぬみちはいと悲しうなん。あひみてものかたりなとせしほとは、六とせにそなりにける。なに事もはかなき夢とのみ成はてて、みなかへらぬむかしと成にけり。彼坊の泉水、こゝろをつくし草木なと植(ゑ)をきたり
なき人の手つからうへし草木ゆへ庭もまかきもむつましきかな
とよみけれは、みな人袖をなんぬらしける。其庭の内に、をのつからいと大きなる石あり。こけむし物ふりたるうへに、いとおもしろき松ひとりたてり。つくりなさは、此外の事はさもありなん。是にはいかならんたくみの人もえをよふましかりける。種しあれは岩にもやとなかめられし。それよりまた舟にのりてくたりけるに、あさかすみふかくたちこもりて、わか友舟もありやなしやとおほつかなきまてたとるに、かすみのうちより鴈の声かときこえて、から櫓のをとしたるもおかしきに、舟人のこゑたかくひきなかめて、何事とえもきゝわかぬうたうたひつゝ、漕(き)くるもめさむるこゝちす。かすみやう/\晴わたりて詠(め)やれは、はるかなる沖にうかふ舟も、かもめ干鳥なとのやうにちいさく見えて、よそめ斗やといへるさることそかし。その日暮(れ)にけれは、ある浦に舟をよせて、今夜は月の出しほに、湊こきいてむと艤ひしけるほとに、自は浜にあかりて、清き磯まにたゝすみけれは、ほとちかく海士のいさりする人みえたり。さてはあのわたりや、浦人の里ならんと尋まかりけるに、家もはか/\しき柱は立て作らす。から櫓かちなと云物をうちわだし、たゝひとへにまはらなる篷をひきかけ、岩のかとを耳にあて、身をも真砂につけてそふしける。かれか身に生れたらましかはいかゝせん。をのれは住家とおもへはさまてうからぬにこそ。やう/\月もすみのほりて、渺々たる真砂にひかりあひぬれは、玉を敷(き)たらんやうに見えける。ある人海辺の月といふことをよめと云
をく網のなかにしつめるつきかけををのかものとやあまの引らむ
とよみ、あまたたひの波まくら楫枕、しほれこし袂ほすまも覚えてあくかれ行に、もしの関にもなりぬ。さのみ舟のうち波の上もたへかたくて、あかまか関にあかりにけり。ある寺に、先帝のみかたち、并に一門の公卿殿上人、局内侍以下まて、はかなきふてのあとにのみうつしをきたり。世へたたりたることゝおもへと、其時のこゝろうさ、しづみ給しありさままて、かす/\におもひ出られてかなしく覚えけれは
所せく袖そぬれけるこの海のむかしをかけしなみのなこりに
それより陸路を、駒の足にまかせていそきけるほとに、豊前の国、きくの高はまにとまりはへりしに、海ちかき所なれは、をりふレ波風すさましう、よもすから打もふされすはへりしかは
夢にたにみやこのつてはさもあらてなみの音のみきくのたかはま
并の国、筑前はこさきの松原、聞しよりみるはになを景気ことなり。彼社頭は西おもて海辺に向はせ給ふ。戒定恵の箱うつまれて、しるしに植られけん松神さひ申(す)もをろかにそはへる。愚詠一首つゝけまほしく覚えはへりしかと、所のありさまにけをされてほひなくやみにけり。それより程ちかき博多といふ所に四五日ありけるうちに、そての湊とことくしくぃはれたるはいつくそ、尋(ね)見はやと申けれは、あるしこゝろある人にてしるへしけるに、あるしのいはく、今こそしほのさしきて水も少はへれ、常は無下にいふかひなくさふらふものをとそ申ける。まことにもろこし舟よせつへき浦ともおほえす。又菅原のおとゝ住給ひし、宰府といふ所やちかくさふらふと問はへりけれは、これより三里あまりやあるらんと申す。さらはよき程なり、おかみ奉らむと詣てゝ、こなたかなだ名所ともみありきしに、なりひらの色になるてふとよみし染川も、其かたなく水さへかれはてゝ、むかしのあとゝいふはかり也。おもひ川、これも聞しはかりにはあらねと、見所おほかり。彼いせかおもひ川とよみたりしも、水なくあせなはくちおしかるへきを、絶(え)すなかるとこそ、人の言葉のまこともあらはれてゆうにははへれ。さてかへりくるみちに朝倉山のほとりにて
むかしをやわすれはてけん時鳥きけとなのらぬあさくらの山
道の行てにひとりかく思ひつゝけらる。一日二日ありて、名護屋にまかりけるに、みちすからの名所ともたつねとはせけれは、是そいきのまつはらとは申すといふ。さる事あり、太宰帥隆家、筑紫にくたりける時、扇たまはせ給ぶとて、枇杷
大后宮、涼しさはいきの松はらとよみしところにそあなるか、まことに奇人はゆかすして名所をしるとことわさにいへるかことく、松はらの景気海にちかく、少さしあかりたかきところなれは、涼しかるへき境地なり。玉嶋川、松浦川何もやかて海になかれいてゝそはへる。松浦川は七瀬の淀とよめるにたかはす、いと大きなる川にてそありける。彼松浦さよひめか、ひれふりしより、名にいはれけん山も。けちかき程にみえていとおかしきさまなり。鏡の神にといへるも、都にておもひおこせし程はいとはるかにて、いかなりけん宮居そなとこゝろあてにせしことも、おもかけうかひたるやうにおほえていとすくれたりける。その日名護屋にいたりて、くさまくらむすひさたむるほともはへらぬに、ほとゝきす一声をとつれて過(き)けれは
ほとゝきす初音きくにはなくさまて出しふるさとなをそわすれぬ
なれも、かへらんにはしかしとなけは成へし。ふるさとのたよりもとめて、かくなんいひつかはしける
あまさかる ひなのなかちに おとろへて
心つくしの たひのそら 草葉を分る
たもとより をくるゝあとの なみたのみ
かゝる袖こそ わひしけれ けふてをゝりて
かそふれは をのかふるさと たちいてし
日かすの程も いまははや とをとてむつに
なりにけり たのむことゝは むはたまの
よるのころもを かへしつゝ 夢のたゝちの
あふことを 玉のをにして すくれとも
それさへうとく なりゆけは 何によりてか
さゝかにの 命をしはし かけもせん
なをもみまくの ほしかるは また二葉なる
なてしこの 花のうへなる ゆふ露の
おもひをくにも いとゝしく こゝろのやみの
はれやらぬかな
わかれつゝいくとしふともいのちたにあらはふたゝひかへらさらめや
底本:「校注挙白集」藤井乙男著、文献書院
1930(昭和5)年