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私たちが名もなき女性の生涯を記事にした理由 ー 「ある行旅死亡人の物語」(11/30出版)著者インタビュー【前編】

行旅死亡人こうりょしぼうにん

あまり聞き慣れないこの言葉。身元が分からず引き取り手がない遺体のことを指す法律用語です。「行旅」という言葉が付いていますが、外出先だけでなく自宅で亡くなった人も含まれます。

今年2月、ある行旅死亡人の女性の人生を追った2本のネット記事が話題になりました。

兵庫県尼崎市のアパートの一室で亡くなっていたのは、1人の高齢女性。部屋からは彼女のものと思しき年金手帳が見つかったものの、身元を確認できる家族や友人は見つからず。住民票も既に消去されていて、市役所のデータベースにも残っていませんでした。

そして、さらに謎めいていたのが、狭い、簡素な部屋に残された約3400万円もの大金。

一体、この女性はどこの誰なのか―。

大阪社会部の武田惇志たけだあつし記者と伊藤亜衣いとうあい記者は、官報に掲載された行旅死亡人情報を端緒に、およそ半年をかけて彼女の身元を調査し、その足跡をたどりました。一連の取材過程は、ネット記事に大幅加筆する形で書籍化され、先月出版されました。

警察や探偵でも明らかにすることができなかった事実を記者2人がどう掘り起こしたのか。今回の note はこの記事を書いた武田、伊藤両記者へのインタビュー(前編)をお届けします(聞き手= note 担当・山本)。
※インタビューは書籍の刊行前に行いました。

■ プロフィール

武田 惇志(たけだ・あつし) 1990年生まれ、愛知県出身。2015年入社。横浜、徳島支局を経て大阪社会部で司法、事件担当など。

伊藤 亜衣(いとう・あい) 1990年生まれ、愛知県出身。2016年入社。青森支局を経て大阪社会部で大阪府警を担当。

■ なぜ「名もなき人」の生涯を追いかけたのか

――記事で取り上げたのは「行旅死亡人」と呼ばれる、どこの誰かも分からない1人の高齢女性でした。今の時代、自宅で孤独死する高齢者は珍しくありません。血縁者が見つからず、いわゆる「無縁仏」になる方も少なからずいますが、2人はなぜこの女性について取材することになったのですか?

武田 行旅死亡人に関する情報は、国が発刊する「官報」に掲載されているんですが、この情報をまとめたネットサイトがあるんです。タイトルもそのまま「行旅死亡人データベース」っていうんですが、身元不明者といっても亡くなる状況は人それぞれ。興味深い情報も出てくるので、僕はこのサイトをときどきチェックしてるんです。

――今回の女性の情報もそのサイトで知ったと?

武田 そうです。昨年6月に家の近くの喫茶店で取材のネタを考えていた時なんですけど、ふとこのサイトで「所持金ランキング」の欄を見たら、トップに「兵庫県尼崎市で発見された75歳位の女性行旅死亡人 34,821,350円」って書いてあったんですよ。たしか2位の人が2000万円くらいでしたから、ダントツです。普通、そんな大金が出てきたらネットでも話題になるじゃないですか。案の定、2位とか3位の行旅死亡人については、他紙が短い記事を出していたんです。でもなぜか、このトップの人については一切記事が出ていない。じゃあ、ちょっと問い合わせ先の自治体に連絡してみるか、という感じで尼崎市に電話したのがきっかけでした。

――伊藤さんはなぜ、取材に加わろうと思ったんですか?

伊藤 武田に誘われたというか、最初は「この話どう思う?」って意見を聴かれたんですね。ざっと説明を聞いただけですけど「すごい話じゃん」って思って。北朝鮮のスパイ説とかね。

官報に掲載された女性の情報(一部を加工しています)

――北朝鮮のスパイ?

伊藤 そう。記事にも書いたんですけど、遺品の中から韓国通貨のウォン紙幣や、北朝鮮の国旗にも使われている「星」の形のペンダントが出てきたので、遺体発見当初、所轄の警察署とかでは「北朝鮮の工作員と同居していたスパイなんじゃないか」という説が持ち上がったらしいんです。それを武田から聞いて「これはぜひ取材すべきでしょ」と思って。現実的に考えると、スパイの可能性は低いかもしれませんが、身元も明かさず長年1人暮らしをしていた女性の自宅から大金が出てきたというなら、何らかの事件が背後にあってもおかしくない。そんな風に思いました。

――事件記者の「勘」みたいなやつですか。

伊藤 かもしれないですね(笑)。

■ 発見現場で感じた「警戒感」

――取材は、裁判所に選任された相続財産管理人の太田吉彦弁護士を紹介されたところから始まります。2人は太田弁護士に聞いた情報の「裏取り」をするため、亡くなった女性が住んでいた尼崎市内のアパートにも足を運んでいますよね。彼女が住んでいたのはどんな所だったんでしょうか?

武田 亡くなった女性が住んでいたのは尼崎の中でも家賃がすごく安い、古いアパートでした。彼女はそこに約40年住んでいたんだけど、部屋の中は狭くて、風呂もない。トイレも和式。全体として薄暗く、ひっそりとした感じなんですが、どこか違和感がある。一番驚いたのはブザーかな。

――ブザー?

伊藤 部屋の壁に取り付けられた警報アラームですね。家具は全て撤去されてましたが、そのアラームだけ回収されずに残っていて、まだ動いてたんです。気になる点と言えば、玄関のドアチェーンも2つありました。アラームもドアチェーンも備え付けではなくて、後から付けられたものなんです。遺体が見つかった時は、窓にも内側からつっかえ棒がしてあって、開かないようになっていたと聞きました。なんというか、私はこの部屋全体に強い「警戒感」を感じました

女性が住んでいた尼崎市のアパートの部屋

武田 変な話ですが、この部屋に入った時、直感的に「ああ、この近所で聞き込みをしても意味ないな」って思いました。家具が撤去されているから生活感がないのは当然なんですけど「腰を下ろして住んでいる」という感じがしない。普通、40年も住んでいれば近所に何人か知り合いがいると思いますけど、そういう付き合いもないだろうと。実際、地元の人にも少し話を聴いてみましたけど、面識があったのは大家さんだけでした。

伊藤 その大家さんにしても、女性が買い物に行った時に見かける程度だったらしく「いつも、すすっと部屋に入るんよ」と言っていました。毎月、家賃を手渡しで受け取る時を除くと、ほとんど交流らしい交流がなかったらしいんです。そういう話を聞くにつれ、私も「何かしら引っ越せない理由があったんだろうけど、好きでこの場所に住んでいたわけじゃないんだな」と感じるようになりました。

――意外ですね。記事の中では、遺品から見つかった女性の若い頃の写真も出てきますよね。素敵な笑顔でほほえんでいる写真もあって、人目を忍ぶような暮らしをしていたなんて想像できませんでした。

武田 そうですね。中には、この家で撮られたんだろうなっていう写真もあったんで、僕も「それなりに幸せな時もあったんだろう」と予想してたんですが、その「残り香」みたいなものは見つからなかったです。じゃあ、一体なぜ彼女はここに住んでいたのか。「現場」を見て、その疑問がより一層膨らんだ気がします。

■ 「本当の名前」にたどり着けた理由

――彼女の名前は残されていた年金手帳に記載されていましたが、2人は遺品の印鑑に刻まれた「別の名字」に注目して取材を進めたんですよね。そのアプローチが功を奏して、最終的に警察や探偵でも調べられなかった彼女の本当の名前にたどり着いたわけですが、どうして身元を割り出すところまで調べることができたんでしょうか。

武田 一言で言えば、行く先々で色々な人が協力してくれたから、ということに尽きますね。その「別の名字」にしても、すごく珍しい姓で、ネットで検索すると全国に100人くらいしかいない。しかも幸運なことに、その名字の「ルーツを探る」というブログをやっている人までいました。その方は既に小規模な家系図をまとめていたので、取材はこの家系図を書き足していくような形で進めました。

――最終的には何人くらいに取材したんですか?

伊藤 聞き込み取材で当たっただけの人も含めると、50~60人くらいだと思います。断片的にでも女性のことを知っていたのは、もっと少なくて10人に満たないくらい。でも、その人たちが一緒になって取材に協力してくれたというのが大きいですね。特に、女性が幼少期を過ごした広島県呉市の「小用こよう」という地区では、本当に皆さんに助けられました。土地勘のない私たちを道案内してくれたり、その場で親戚に電話を掛けてくれたり。会いたかった人が不在だった際は、近所の人が「いま帰ってきたよ」と後から電話で教えてくれたこともありました。

女性が幼少期を過ごした広島県呉市の小用地区

――ラッキーですね。事件取材をしていると「ちょっと分かりません」とやんわり断られたり、あるいは、もっとはっきりと「帰れ!」って言われることもしょちゅうありますが、そういう人はいなかったんでしょうか。

武田 ゼロではなかったかもしれませんが、かなり少なかったと思います。ほとんどの人が「何か協力できるなら」と一緒になって考えてくれる。そういう流れで、血縁者に行き当たり、同級生が見つかり、昔一緒に働いていた同僚にも話を聞けた。取材手法は、僕らが日ごろ事件取材でやっていることと変わらないんですが、ちょっと異常なくらい取材先の展開がうまく進んだんです。スピリチュアルな言い方ですけど、なにがしか運命めいたものを感じました。

■ 「社会問題」ではなくても…

――取材は昨年の6月に始まって、ネット上に1本目の記事が配信されたのは今年の2月でした。取材期間も長いですが、記事を出すに当たってはデスクとのやり取りなど、別の苦労もあったとか。

武田 そもそも記事にするのかどうか、かなり迷いました。取材を始めて数か月後の夏ごろに、一度デスクに相談したんですけど「記事を出す意義はどこにあるの?」「社会的な問題提起になるのか?」などと聞かれ、言葉に詰まってしまって。副部長にも意見を聞いたんですが「ちょっと記事にするのは難しいんじゃないか」というような反応でした。今思い返すと、この時は半ば諦めかけていたかもしれないですね。そんな僕に比べると、伊藤はかなり前向きでした。

伊藤 私自身は、デスクが難色を示した時にも「絶対に出したい」と思っていました。これだけの時間を割いて、多くの人にも協力してもらって、身元にもたどり着いたのに、それを記事にできないなんてちょっと納得いかないなと。だから武田に「まずは何か書いてみてよ」とせっつきました。

遺品から見つかった女性の若い頃の写真

――伊藤さんの方が押しが強かったと。

武田 そうですね。実は秋ごろに、取材で出会った血縁者の方と女性のDNA型が一致して、科学的にも裏付けられた形で身元が確定したんです。そのことをデスクに追加報告したら「じゃあ、とりあえず1回原稿をまとめてみたら?」と言われたのもあって、A4で2枚分の初稿を書きました。それを伊藤に送って加筆してもらったんですが、その加筆部分がめちゃくちゃ細かくて。

伊藤 ネット公開を前提に書いてたからなんですけどね。字数制限がある新聞向けの記事と違って、ネット向けの記事はいくらでも書けるじゃないですか。だから、自分たちが経験したことは全て書き込もうと思って、いつ、どこで、誰に話を聴いたのか、出せることは全部書きました。

武田 伊藤から原稿が戻ってきた時は、正直「細かすぎて、とっちらかった原稿だな」と思ったんです。だから申し訳ないけど、加筆された部分は一旦、かなり削りました。でも、少し時間をおいてから読み直したら「あれ?むしろディテールがあった方が良いんじゃないか?」って感じたんですよ。

デスクが指摘した通り、僕らがいつも書いているのって「社会問題」的なことばかり。今回の記事は全く異なる極めて個人的なストーリーなんだけど、その取材過程にこそ、人が生きたあかしというか、伝えるべきことがあるんじゃないかと思ったんです。そう思い直して、一度消した伊藤の加筆部分を復活させ、さらに細かいエピソードを書き足しました。

伊藤 そんなやり取りを何回か繰り返して、デスクの指摘で修正を加えているうちに8000字を超えてしまって。そこまで長くなると、とても記事1本には収まらないので分割するしかないんですが、デスクからは「記事を前半と後半に分けると、読者が付いて来られなくなって最後まで読まれない。少しでも短くして1本で出した方が良いんじゃないか」という指摘もありました。ここでも私が「削られるくらいなら、2回に分けてでも全てを出したい」と訴え、最終的に2月下旬に前編・後編の2回続きで出すことが決まりました。(続)


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今回の取材については voicy でも武田記者と伊藤記者の解説番組を配信しています。ご試聴はコチラから↓