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評③『シャケと軍手』椿組版~その1

 下北沢ザ・スズナリで『シャケと軍手~秋田児童連続殺害事件』を観る。指定席4500円(自腹)。脚本は山崎哲、構成・演出は西沢栄治。上演時間約2時間(休憩無し)。都民芸術フェスティバル2021参加作品。
 以下ネタバレ含む。

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2006年事件をもとに08年初演、今回再構成で再演

 2006年4~5月に秋田県藤里町で起きた児童連続殺害事件がモデル。2008年11月に山崎氏作・演出山崎氏主宰の新転位・21で初演。場所は同劇団の“常打ち小屋”(こんな言い方するんだ!)だった、ポルノ映画館の中野光座(=2009年くらいに区画整理で取り壊し)。事件後2年半で現地取材を経て上演に持っていった強い力には敬意を表する。今回、13年前の戯曲をそのまま使ったのかは知らない(すみません)、と思ったら、13年前に2時間半くらいの舞台を再構成して2時間にしたそうだ(2021.3.16読売夕刊)。

劇作家のFBに天邪鬼の虫が蠢く?(春の虫)

 へーと思ったのは、山崎哲氏のFBまで行ったら、他人(名前は出していない)が書いた、今回の公演に対する辛めのな評を紹介し、「私が読んだ中では一番正直、まっとうな感想だと思う。」としていること。ふーん。すみません、その前から遡って同氏のFBを読むまで至らないままで怒られるかもですが、愚考をこの後書く。
 作・演出(戯曲を書いた作家が演出をも行う)問題(?)についても知らないながら(すみません)、考えるなあ。

 なお、自分は天邪鬼のため、絶賛されてると叩きたくなり、批判されているのを観ると擁護したくなる、どうしようもないあほな感覚を持ちここではそんな風に書くことを先に吐露しておく。そもそも、芝居は主観無しに見られない、と開き直る。で、金をもらって書く仕事でないので、どころか木戸賃を払って観たので、観たものは自分のものだ、自由なのだ(明らかな嘘を書くとか、名誉棄損するとかしない限り)。
 最近読んだ『興行とパトロン』(森話社)では、素人評云々が要るのかどうか書かれており、頭に痛いが、まあ、いい(何がいいのだ)。

 さて、自分の感想(批評になっておらんだろう)。
 本当は全く違うことが、この作品を観ることで頭に浮かんだのだ。映画『MOTHER マザー』(2020)との比較である。しかし、天邪鬼モードが長くなりそうだ。余裕あれば「その2」で書く。

椿組親近感モードで観た事実、前回は花園神社

 なぜ今回これを観たかというと、実在の事件をもとにしたから。ノンフィクションは興味がある。それがたまたま椿組だった。
 自分が、椿組を観るのは今回二回目。前回は花園神社のテント公演『芙蓉咲く路地のサーガー熊野にありし男の物語ー』(2019.7)。花園神社のテント上演観劇自体が、唐組『ジャガーの眼』(2019.5か6)、新宿梁山泊紫テント『蛇姫様』(2019.6)に次いで三回目。浅いな。それで語るか、語る。たくさん観た輩が深いとは限らん。ま、浅いが。
 せっかく金出して見るので直前に椿組のHPを見た。コロナ禍で都がやってる「アートにエールを!」参加の動画が公開されている。その中で「椿咲く花園の夜〜舞台部が見た花園野外劇〜」が面白くて。野外劇の時、いかに舞台や小道具を作り、演者に演じてもらい、壊すかの過程を17分ほどでまとめている。以前、某所で観た映画『シアトリカル 唐十郎と劇団唐組の記録 』(2007、大島新監督)を思い出すような。テント全盛時代に芝居観てないが(すみません、誰に謝るのか??)、観てない輩でもテント芝居の雰囲気を味わえそうな動画、個人的おススメです。
 なお、テントの向きにも嗜好はあるらしく、前に観た唐組は神社内の緑がバックだったが、椿組は車がばんばん通る明治通りをバックにするのが恒例のようだ(今更知ったのか!、ええやん、素人やもん)。
 この舞台部の動画を見たもんだから、なんとなく椿組に親近感を持った状態で、今回の上演を観たことを断っておく。

花園と違って狭いなと思う

 そんな流れなので、芝居の幕が開くと、先に考えたのは花園神社との違いだ。椿組は毎年夏に花園でやって、それ以外は「小屋」公演やってるんで彼女ら彼らにとっては別に何でもないが、自分にとっては「花園神社の椿組」が今回は閉ざされた空間で演ってる感であった。
 だって、スズナリだよ。なんて偉そうに。スズナリは舞台袖がない小屋。それも、ずっと昔にスズナリで観た時はなんだかよくわからず、最近いろんな劇場を観てやっと気づいたレベルだけど。

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 最初に感じたのが、「テントは広かったんだな~」ということ。
 で、秋田の田舎を舞台にしているわけだが(やっと作品の中身が出てきました)、野外テントだと外とつながってる感があるのに比べ、風の匂いも空の広さ暗さもつながってない、閉鎖的空間なんだな、ここ、どうやってやるんだろうと思ったわけだ。
 で、ああ、閉鎖的空間の方がもしかして、この作品に合ってるのではないかと、途中で思い出した。
 殺人がメーンだが、DV、虐待(ネグレクト含む)、いじめ、噂話が出てきて、そして、家族の話だから。閉鎖的、が主題であったかもしれない。

単なる感想

 筋は、自らの娘と、その娘と遊び友達だった男の子を殺した女と家族と彼氏と近所の人々の話。
 もととなった事件は2006年4~5月に事件が起き、6月に女が殺人、死体遺棄、誘拐などで逮捕され、2008年3月に地裁(一審)で無期懲役判決。山崎氏はこの時点から執筆したと見られ、2008年11月に初演。2009年3月に高裁判決(二審)、5月に弁護側上告取り下げで無期懲役が確定。
 人を2人殺してなぜ死刑でなく無期懲役なのか、さまざまな思考が行き交う中で、女が置かれてきた「環境」へのまなざしが今もなお注がれ続ける事件(と言っても、忘れてたが)。
 この作品は、その女の内面を、周囲を描くことによって浮かび上がらせようとしたものと思う。

・当初の戯曲のせいか、再構成のせいか知らないが、台詞を投げかけたままふつっと切れて転換または暗転の場面が2、3度あり。考えさせる間があり、個人的にはよかった。逆にいうと、冗長な台詞がなく、さっぱりして、それが自分の内面を探るには合っていた。
・数度あった「暗転」がその直後は真の暗闇に近い感じ。テントだと外の光が入るし、劇場でも真の暗闇はなかなかできないが、これは真っ暗だなと思った。場面転換のための暗転ではなく(もちろんその間に少し小道具は変わったりするが)、観客に考えさせるための暗転かと。
・「その2」が書ければそこで書くかもだが、「あなたと私は違うが、あなたは私もかもしれない」が主題のひとつと感じさせた。それは、噂話をしていた近所の人たちが何秒か、客席を見る場面。いや「犯人はお前だよ」かな。印象的なシーンだった。
・テント芝居だと最後にバーンと後ろを開けるのだが、小屋でどうするのかと思ったら、閉鎖的空間の中のさらに閉鎖的空間に籠ってしまった。ああ、そういう風にしたか、頭使ったなと思った。
・「あなたと私は違うが、あなたは私もかもしれない」であれば、主役と脇役で成り立つ劇ではなく、人間群集劇と見ることができ、となると、ひとりひとりがそんなに飛び出る必要はない。
・あれこれ「女」の噂話に興じた近所の人たちが別れ際、背中を見せた知人に雪かきスコップを振り上げ、振り向いた知人に何でもない顔をしてごまかすシーン。こここそ、「事件は他人事でない」「お前がいつ犯人になるかもしれない」の象徴ではないか。群衆こそ主役ではないかと感じ入った。
・若くてきれいな俳優・女優が演じてるが、実際の田舎は違うよな。ま、舞台ですから。太めの人、年とった人、頭髪の薄くなった人の方がそういう場合、「味」が出る妙(単にベテランというだけか)。
・変に声が通る人がいて、意味なく目立ってしまった。声を通らせることによってその役柄を目立たせる必要があればそれでいいが、単に横並びでいい場面だったので、声量はそろえてほしかった。
・タイトルのうち「シャケ」はわかったが(てか、イワナかな)、「軍手」がわからんまま。

観ていない2008『シャケと軍手』との不可能な比較

 2008年の初演時の情報をネットで検索。
 <2008年11月18-28日
 所●中野光座 料金●前売3000円/高校生2500円/当日3300円
 石川真希、佐野史郎、飴屋法水、十貫寺梅軒(友情出演)……夢の豪華キャストで贈る秋田児童連続殺害事件。山崎哲、待望の新作書き下ろし>
 今回2021年スズナリでは、全部パイプ椅子+座布団で指定席4500円、自由席4000円、学生・養成所3000円、中高生2000円、小学生1000円など。

 料金は2021年の方が高く、2008より「いい」作品を見せる責務はあるかも。
 13年間の流れは何を。
 くらいしか、わかりません、すみません。

作品を他人に任せること、作・演出のこと

 椿組主宰の外波山文明氏は上演チラシでこう書いている。
 「この芝居、山崎哲さんの新転位 21での中野光座での公演も見ています(中略)山崎哲(呼び捨て)とは(中略)流山児祥(呼び捨て)を含み同期の桜です。アングラ2世代です。その山崎戯曲に初挑戦です。劇団、演出、演者、が変わるとこうも違う芝居になるのかーー。そんな興味を持ってみていただけると嬉しいです。(中略)。新しいお芝居として(中略)ひと筋縄ではいかない演劇の世界をぜひご一緒に!」
 まあ、そうなんじゃないかね。これは椿組『シャケと軍手』だ。自分は自分なりに考える要素をもらえたと思う。
 山崎氏が、自らの作品を他者に任せたのだ。新転位と違うものができたのは、時の流れも含めて当然だろう。

 関連で最近、作・演出が多いそうですね。戯曲を書いた人がそのまま演出するという。

「二大わからなかった」西尾氏のチラシがわかる時

 「自分がこれまで観た芝居で二大わからなかった」に入る、鳥公園♯15『終わりにする、一人と一人が丘』西尾佳織作・演出、というのを2019年11月に池袋の芸劇シアターイーストで観た。西尾氏はいろいろ考えた挙句に台詞を散文から詩に戻していこうとする人で(そんな理解でいいのかなあ)、散文的脳みその自分には難解だったことを白状。
※その直前に、新装の池袋西口野外劇場のこけら落とし公演だったか、雨に打たれながら宮城聰『マハーバーラタ』を見たので、その疲れもあった。
 しかし、今、その時の上演チラシを見返すと、西尾氏の考えに近いかも、自分(何を偉そうに)。自分もそれなりに演劇を学んだのかもしらん。
 「複数性の演劇のために」とある中に「作・演出・主宰を分ける」とある。
<以下抜粋>
 作と演出を分けることは、言葉でひとつ世界を綴じる工程と、戯曲の世界を身体原語によって立ち上げる工程を分けることです。演出と主宰(≒プロデューサー)を分けることは、芸術上の判断と運営上の判断を分けることです。
 劇作家と演出家、演出家と主宰が異なる立場から対話することで、単なる「好き/嫌い」や「快/不快」という価値に留まらない、世界の複雑を複雑なままに定時する複数性の演劇を実現します。

 で、西尾氏は演出しない方向だそう。
 あ、このチラシの意味、今になって、わかった、かも。

 そんなこと、山崎氏も重々承知のうえなのだろう。

 という素人の書き殴り、長くなったので、この辺で。

 
 


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