評㉗蓬莱竜太作・演出『広島ジャンゴ 2022』コクーンA席9000円
前置き・評㉗文春砲直撃の蓬莱竜太『広島ジャンゴ2022』を観るまで、演劇界考(2022年4月27日)
から続く。芝居そのものの劇評はこちらのみ。
蓬莱竜太作・演出、COCOON PRODUCTION 2022『広島ジャンゴ2022』@渋谷・シアターコクーン。天海祐希、鈴木亮平のW主演。A席9000円で観る(その日のS席が手に入らなかった記憶?)。2022/4/5(火)~4/30(土)、S席11000円、コクーンシート5000円。※大阪公演5/6~5/16
1幕1時間10分、休憩20分、2幕1時間20分。
広島弁の西部劇風、との宣伝文句。
舞台美術・愛甲悦子、照明・日下靖順、音楽・国広和毅、音響・長野朋美
※以下ネタバレあり(まだ大阪公演もある)
3作家共作、2017年広島初演のリニューアル再演
観劇で、事前にあまり情報は入れない主義。「初見の客がどう観るか」を大切にしたいし、それが筋では。
パンフ2000円は買ってない。観劇後検索で調べて知ったが、「広島ジャンゴ」自体は、2017年2月に広島で、広島市文化財団による「演劇引力廣島」プロジェクトの第14回プロデュース作品として、広島のキャストを中心に上演されたものであるらしい。
作は象千誠、藤井友紀、蓬莱竜太、演出は蓬莱竜太。蓬莱のコメントによると「広島3年プロジェクトの2年目。広島の作家たちと共同で台本を創る試み。広島の役者、東京の役者、初舞台の人、色んな人間が入り交じり」とある。なので、共作であり、純粋な蓬莱作ではない。おっとっと。
※参考「演劇引力廣島の「広島ジャンゴ」で、象千誠×藤井友紀×蓬莱竜太が共著(2016年12月19日、ステージナタリー編集部)」
で、今回はリニューアルし、「蓬莱作・演出」となったそうだが、どこをどうリニューアルしたのかは自分にはわからない。
なお、ジャンゴは、wikiだと「ジャンゴ (Django) - 1966年制作のイタリア映画『続・荒野の用心棒』の主人公」と出てくるので、その意味か。
A席9000円は2階席(実質3階席)、冷静な「神の視点」
今回はコクーンA席9000円。2階席というが、1階席との間に中2階席があるので、実質3階席。見切れもあるコクーンシートと違い、また客席配置に適度な傾斜もあり、離れているが舞台全体は視界に入る。
そう、視界に、入り、過ぎる。
舞台の全体が斜め上から見えすぎて、舞台装置丸見え。「鳥の目」どころか、「神の視点」。俯瞰できてしまう。分析モードに容易に入る。
そういや、『唐版 風の又三郎』(窪田正孝主演)を2019年にコクーンシートで見たが、舞台にそこそこ近いがゆえ見切れがあり、そのストレスで演技に集中できない分、舞台装置を冷静に見てしまった記憶。
今回の席は見切れはないが、俯瞰し、終始冷静に観た。自分の場合は、先に書いた「蓬莱作品どうよ」の気持ちがあったが、別に自分だけが醒めていたわけでないと思う。舞台進行中、1階席から結構笑いが起きていても、2階席コクーンシートにやや近い自分の席周辺は静かなことが何度かあった。客席の「温まり」が1階席(さらに中2階席?)より多分遅いのだ。
今回、舞台美術は、舞台の中に2階建て形式で2階の部分に通路を作ったが、その高さが客席側の中2階席とほぼ同じ高さ。2階席(実質3階席)はその舞台中2階建て通路より更に高いところから見下ろす形。表情はオペラグラス確認。ううむ。
先日、コクーン歌舞伎『天日坊』が面白かったと書いたが、1階席の結構前の方だった。あれも中2階席や2階席から見たら、また違ったんだろうな。
ただ、先日歌舞伎座3階席で観た歌舞伎(『天一坊大岡政談』)は、花道見切れを除けば、それほどの1階席と感動の違いはない気がする(もちろん役者の顔は遠いが、隈取の化粧は遠目にもよく見える)。歌舞伎=やや平面的な作り(海の白波も絵で表現するとか、松の木も張りぼてとか)、現代劇=奥行きのある立体的作りとすれば、3階席から歌舞伎を俯瞰しても、舞台そのものがどこから見ても平面的なのでさほど差はない?というか。。ちょっと説明が難しいが、そんな気もする。
なので、1階席で観たらまた違った感想だったと思いつつ。
値段が高い分、1階で観ると世界観にはまれるのかな。
2階席の女子トイレ個室4室。休憩時は行列。中2階にトイレはない。1階にある。
一階の「素の空間」が次々に変わっていく
まず、舞台装置から。舞台美術は愛甲悦子。
2階が剥き出しの中折れ通路(上手、下手から出はけ)と下手側に1階に降りてくる階段。通路の奥に、音楽バンド。ベースギター(?)とドラムの2人構成か。ギターは時々舞台1階や2階通路を歩いて演奏していた。
1階のど真ん中は何も広い「素の空間」になっており、そのまま派手な照明と音楽でダンスフロアとして使ったり、可動式のテーブルや椅子、ベルトコンベアなどを役者たちが動かすことで、カキ工場、「西部劇に出てきそうな酒場」や普通の家、部屋などになったりと、次々に早変わりさせる。同時に照明の形や色、動きを切り替えることで、空間の変化感を加速させた(四角い白い照明で「部屋」を表現するなど)。
役者が20人ほど出ており、主役級以外は移動作業に従事しながら台詞を口にするなど、こうした簡単な舞台転換は容易で無駄にしない感。鈴木亮平が歌ってる間も他の役者たちが転換していた。
次第に大きくなる音楽に溶け消えていった台詞の描写
基本的な舞台の骨組みは、2幕になっても変わっていなかったが、こうした展開の早い舞台転換で飽きさせることはなかった。
照明(日下靖順)も相当寄与した。
音楽(国広和毅)、音響(長野朋美)は、公演中二度ほど特に大きな役割を果たしたと思う。
“悪役”町長の仲村トオルがヒットラー張りの扇動的演説で大衆を引き込んでいく際、彼の台詞は次第に音量を増すドラムの音の中に溶け込んで消えていった。映画的とも言える、独裁者の言動に引き込まれて脳みそが空っぽになり、従っていく大衆の頭の中を描写するかのようだった。
もう一つは、ラストシーン。「あれこれわーわー銃撃戦やらやらあった」最後に、天海祐希と鈴木亮平がカキ工場でしんみりふたりきり、日常的な台詞を語り合ううち、音楽が次第に大きくなっていき、台詞が再び溶ける。
自分には、この2つが印象的であった。
「同調圧力」カキ工場、権力と対決の西部劇、過労自殺の姉
構成。原作が3人の作者による共作のせいもあるのか、正直、ストーリーというかプロットというか、いろいろ詰め込み過ぎの感があった。今回蓬莱作ということで整理したか、あるいは更に書き加えたかどうか。
広島のカキ工場で働くシングルマーザー(天海祐希)が、その工場の勤務シフト係(鈴木亮平)の“夢(?)”の中で西部劇風のガンマンになって、町長(仲村トオル、カキ工場長でもある)の「悪」と対決していく。
①「同調圧力」のカキ工場、②大衆、中でも女が被害者・弱者になりやすい世界で女ガンマンが悪を退治する西部劇、という2つのストーリーを、③鈴木亮平の自殺した姉(過労自殺?)の思い、というもう一本別のストーリーがつなぐ。
女性視点っぽいが、男性がより深く書き込まれる
その中で、「女性が受ける暴力、性暴力」(夫から妻へのDV、若い男から女へのレイプ未遂、娼婦に落ちる等)、「独裁者の権力横暴」(「水」を独占する町長、同調を求める工場長と仲間)が大きなメッセージで、「市民よ、立ち上がって闘わなくていいのか」と呼びかけているように感じる。
ふーむ。蓬莱は男性だが、女性視点を打ち出しているようだ。とは思った。しかし、実際に人物描写が深く書き込まれていたのは、男性役であったように感じる。
“7割主役”の鈴木は笑いをとる担当
W主役というが、狂言回したる(つまりメーンの視点となる)鈴木亮平が、その7割くらい持って行った感覚。実際、鈴木は器用だ。わめく、静かに語る、を演じ分けるのはもちろん、客席の笑いの大半は鈴木の場面だった(冷静な「神の視点」により、ここで笑いを準備している、とは逐一わかった)。それも、無理して笑いを強制するのでなく、人柄と演じている役柄から、客席に自然に笑いを生じさせる、優秀なコメディアンでもあった。
仲村トオルの悪役の方が、実は共感を得やすい?
仲村トオル。今回リニューアルで蓬莱が書き込んだのはここか、と想像。前にどこかで観た舞台の演技とそれほど変わらなかったが、その「押し付け気味、ワンパターンに見える(すみません💦)演技」が、悪役に似合っていた。先に書いたヒットラー張りの扇動的演説、藤井隆演じる町民と鈴木周平演じる義弟をそれぞれ貶める場面、「水」独占のための井戸を掘るための「犠牲」を滔々と語る場面、最後に撃たれて死ぬ時「ティム(町長)はどこにでもいる」と叫ぶ場面。ほぼ主役だ。
「絶対的な正義はない」「お前にとっては正義でも、すべての人間にとって正義ではない」と語る。なかなか、メーンテーマを突く台詞だ。人間の裏の裏の裏の裏の……。
そこそこ世間の風にあたって生きてくると、勧善懲悪だけではすまないと残念ながらわかるからな。年寄りだからか。
藤井隆。最初は町の人のためにがんばろうとするが、仲村トオルに家族ごと貶められる。権力者に逆らった大衆の悲哀を代表する役。お得。
言葉で権力への反抗を語ったマダム役・宮下今日子
女優で一番美味しいところを持っていったように見えたのは、宮下今日子。酒場兼置屋のマダム、ドリー役だ。町長の悪に憤慨し、演説し、殺される。その演説の場面。天海演じるガンマンは「銃という暴力」で町長を射殺するが、言葉と言う武器できちんと怒り、「みんな立ち上がれ」と演説したのは、このドリーのみ(と記憶)。
声も堂々として通っていて、迫力があった。
また、町長の妹(?)を演じた池津祥子も地味ながらきちんと脇をしめた。大人計画か、そうか。
そして天海祐希。生の舞台で観たのは初めて。かっこいい。ガンマンとして様になっていたと思う。天海目当てに来た客も、宝塚時代からのファンも多いだろう。そういえば客席は9割方女性。年代は40~50代が目立ったか。天海ファンならずとも、やや年齢が上っぽい。
DVを受ける気弱な妻のシーンが一瞬あり、「お」と思ったが一瞬だった。基本的には硬派な女。もう少し別の一面を見たかったかも。そこは蓬莱の天海への見方なのかもしれないが。うーむ。
野村周平、中村ゆりもいい演技だった。
で、もう一度書くと、女性目線のテーマに見えて、男性を書き込んでいたように見えた(だから、男優に目がいった?)。ということ。
ロバ頭のボトム、『民衆の敵』、『OUT』を連想
なお、芝居の一等最初に感じたこと。
芝居は本歌取りが当然だが、以下が自分の頭に自然と浮かんできた。
シェークスピア『夏の夜の夢』の、ロバ頭のボトム。鈴木亮平が狂言回し的に馬の頭をかぶって馬になるのだが、見た目はボトム。
「水」「町の政治と民衆」から連想した、イプセン『民衆の敵』。町の温泉の水質汚染を突き止め、真実を伝えようと民衆集会を開いた主人公が「民衆の敵」と烙印を押されてしまう話。2018年に堤真一主演で、ここシアターコクーンで観た。
冒頭のカキ工場は、桐野夏生『OUT』冒頭の、コンビニ弁当工場。
広島舞台を広島以外で上演する時
広島舞台にした作品を広島以外で上演する時、もうひとつ何か必要だったか。いや、東京が舞台なのが当たり前、の世界で、これでいいのか。その辺の答えは不明。
広島と言えば、原爆、やくざ(映画の舞台)、プロ野球広島カープ、自動車のマツダ、宮島、カキ、お好み焼き、路面電車、政令指定都市。かな。
やくざ映画のイメージと西部劇を重ねたのか。沖縄が今年返還50年テーマの作品が多いのに対し、広島は「原爆のヒロシマ」のイメージが強いが、広島はそれだけでない!という思いが、広島の作家との共作ゆえ、あったのかもしれない。
そうそう、天海演じるシンママと娘と歩くシーンで買い物などの荷物多くて道路に荷物を置く。ママが「車が買えなくてごめん」と娘に言うのは、自動車メーカーマツダの地元っぽい(東京ではまあ、あまりない。車持ってない人多いので)。
広島弁は、「じゃ」「けん」を入れればそれらしく聴こえるので正しい話し方だったかは自分にはわからん。
ひとつの世界観らしきものに収めた作品
ということで、蓬莱作品を観るつもりが共作だったので、どこからどこまでが蓬莱作品と言えばいいのかわからないが、大勢のキャスト、あやとりの糸のような込み入ったストーリーを、なんかひとつの世界観らしきものに収めたと言える。伏線回収はほどほど。それもひとつの方法だろう。
「神の視点」で俯瞰し、冷静に観過ぎたせいで、自分的には「よくできた作品」と言う感想。怒涛の勢いで糸を入り組ませ、その入り組ませた糸を怒涛の勢いで解いてしまう野田秀樹、の方が、自分の脳みそを任せるのに慣れているか。まあ、野田は作・演出のうえに「出演」が多いので、もともと醒めた目で見ているが、それでも勢いで引き込まれる感はある。
そう、こちらの作品はやはりイプセン『民衆の敵』が頭に浮かんでしまう。