・今日の周辺 2023年 香りの中で気分を分けてもらう帰途
○ 今日の周辺
大きな雲が鮮明。夏が立ち止まっているかのように連日の猛暑、34度、夏休み後半、このままずっと夏休みでいいと願ったのが実現してしまったかのように同じような暑い日が続いてる。
この出社前の、最寄り駅の喫茶店での300円の1時間半は、家にも、仕事にも、やりたいことにも関係のない唯一の時間。心落ち着く。
できることも限られているし、持ってきた本を読むか、日記を書くか、くらいで。それがよくて、脈絡のない空想をするのに最適。
○ あれこれ
『スキップとローファー』9巻、Kindleで予約していて発売日に読む。
恋愛に対する互いのスタンスの違い、個人が持つ価値観の提示と両者のすり合わせ、すごく重要な場面だと感じた。
後半の志摩と迎井のシーンは分かりやすくそうだけれど、9巻全体で、男性と女性とでの観点の違いはもちろん、一人ひとりの境遇に起因する価値観や認識の異なりを登場人物一人ひとりが直面する出来事を通して描き示そうとしているところに心がじんわりとした。
恋愛や友情、またそれらに分類されないように感じられる他者への思いを現行の規範や通念に集約して省略してしまわないところがスキローを読み続けたいと思えるひとつの理由でもある。
共感もあるんだけど、もう等身大とかではなくて、自分のことを振り返ったりしながら読まざるを得なくて、完全に親戚とか、近所の人目線というか、大人目線になってるのに気づいてなんとも言えない気持ちになったりもする。それに、ここまでは割とバイナリな視点で描かれてもいて、そのことに寂しさを感じなくもないのだけれど、9巻を読み終えた感動から1巻からまた読み直しているなかで、6巻に登場していたナオちゃんのパートナー(?)の存在を思い出したりして、その2人の関係が今後描かれることに期待もしながら。
とにかく小さな1コマをとっても、みんながいい顔をしてる、尊重されていると感じる。ふみちゃんの怒った顔。
午前中は映画(職場で勧められた「THE FIRST SLAM DUNK」)を見て、それで昼過ぎに新宿から三鷹へ移動して、駅ビルで定食を食べた。
今日はこれから三鷹のSCOOLで金川晋吾さん『いなくなっていない父』上映会と、金川さんと佐々木敦さんとのアフタートークを聞きに。
久しぶりに三鷹に行くので、UNITÉにも行こうって決めてて、お腹を満たして、駅から歩いて10分ほどのUNITÉへ。
駅から離れていくと、背の高い建物も減って、なんかもはや東京でなく、郊外のような雰囲気、もうここは23区内でないことは確かだけれど、2、3駅でこんなに街の雰囲気って変わるもんか、と歩きながら。今日は台風も近づいていることもあって、なんか風も空もこれまでと違った感じ、季節の枠から飛び出した、なんだかよくわからない天気、今にでも雨が降り出しそうな、それでいてぴかっと晴れてしまいそうな、それよりもぬるい風がびゅーびゅー吹き出しそうな、そんな何かの間にいるような気候。
知らない街を歩いている、ふわふわとした高揚感があって、何だか気持ちが定まらなかった。そんなうちにUNITÉに着いてしまって、立ち止まることもできず、そのままの足取りでお店の中まで入ってしまう。
注目を浴びている新しい本の背表紙が一冊づつ並んでいるところに目を滑らすのが楽しかった。背表紙のタイトルが箔押しされている本は見上げると店内の照明に反射してかっこいいな、気になる本は何冊もあって、本屋の本を見ているというより、もう少しパーソナルな、人の本棚を眺めているような感じにも近いような、どれほど知らない本がたくさん並んでいたとしても緊張させない雰囲気をつくっていた。
東直子さん『現代短歌版百人一首 花々は色あせるのね』が出ていることを知った、ぱらぱらと立ち読みをして、和歌は、人が直接にアプローチすることのできないことに対する、まじない、や祈りのようだなと感じられた。「このようなまじないをかけておいたよ」という感じがして。
空間の作られ方によって、一冊一冊がこんなにも私に対等に、先入観として難しくも、易しくも、見えない、誰かによって書かれつくられた一冊一冊として感じられる。とにかく手に取りやすく、手に取りたくなるし、気になる本に手が伸びる本屋だと感じた。通いたいし、住みたい。
悩んだ末、気になってた『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』買う。レシートは本に挟んでおく。
単行本や新書、文庫がそれぞれの棚にきちっと並べられているのに対して、絵本は背の低い棚の上に無造作な感じで置かれているのが私には嬉しく感じられた。
1時間弱をかけてぐるーっとじっくり店内の本を眺めて、手にとって、書き出しを読んだり、装丁や挿画を楽しんでいるうちに気持ちはすとーんと落ち着いてふわふわとした気持ちは地面に着いた。
何か、友達から本を借りた日のような気持ちでお店を出て、またたまに足を運びたいというより、本はUNITÉで選びたい、というほうが今の気持ちに正確、と駅への道を戻る。
18:30からの上映会。
金川さん、想像していたより遥かに、不思議な人で困惑する。飄々としながらも本当の本当に困ったり焦っていそうで、いや全くそうでもないふうにも見える。一言で言えば、トーク全体の脈絡、建設性のなさ、そこまでをもこの人の魅力としていいのか判断に迷うほどに???という感じで、辛抱強く次の言葉を待つ、時間が続いた。
漠然と尋ねられること、他者から投げかけられたことから想起されることを口にしていく。それらによってジャッジ、固定されそうになる瞬間を撹拌して「本当」みたいなものに到達しないようにし続けながらそこに漂っている可能性の広がりを最大限味わおう、味わってほしい、としているのだと感じて、私もなるべくそうできるように耳を傾ける。
2時間ほどに及ぶトークのなかで聴衆の雰囲気は明らかにそわそわしたものになっていた。けれど、そのことにも動じることのない2人、佐々木さんが尋ねることや応答はまずは素朴であり、着実で、丁寧で、そのような個人的で繊細な時間が共有されている会場の雰囲気をなるべく全員で運んでいこうとする方向性が感じられ安心感があった。
また、映像の中の金川さんと父との応酬が、上映後の対談を通して佐々木さんと金川さんの関係にそっくり写って現れているようで、何かおかしさがあった。
すごく戸惑わされた。戸惑わされることは、心をかき乱したり、不安にさせたり、なんなんだろうと思い煩わせ、時に腹立たしくさせたりするけれど、そんなことに自分の気が済むまで構っていられたらいいのに、とも、いつも思う。「なんだったんだろう」ということにできる限り思いを向けていたい。
金川さん自身も、トークの中で佐々木さんから投げかけられた問いに対して、あらかじめ準備された言葉でなくその場で連想されたり思いついたことを口にするようにしているように見えて、それすらも「決めたこと」とかではなく、自然になされていたからこそ、戸惑っていいのかさえに戸惑う、みたいな鑑賞体験が自分の中に込み上げたのだと思う。
今回のようなトーク、お金が支払われて時間を費やす場において、そうでなくとも人と約束をして会って話したりするときにも、結論や結局のところ何が言いたいのか、ということが重視されすぎたり、期待されすぎることは窮屈でつまらないことだと感じることがあるし、こうしてこの場でしか到達できなかったであろう場所に連れて行かれる体験はやっぱり楽しい。涼しい夜道を歩いて帰る。
○ 8月
8月は敗戦から78年ということもあって、戦争経験者と二世、三世の記事をいくつか読んだ。
そのなかでも朝日新聞の「戦争トラウマ 連鎖する心の傷」という全6回の連載記事、戦中だけでない戦争被害が目の届かないところにまで及んで、時間を超えて伝播し続け、人を酷く傷つけ続けてきたということを明らかにし、伝える。
(連載の導入としては、現在の問題とも通じる第6回から読むとよいかもと思いました。)
理屈抜きに脅しや主従関係のみでコミュニティを形成し、動かす、というところから抜け出そうとしなければならないし、そのことに意識的でなければならない、大義のために個人の主体性を挫く「戦争」というものにおける人間関係のメカニズムは現代に自分が直面する人間関係にも重ねることができる、日々に隣り合ったものであるということがわかる。
「戦争」のなかで起こった様々な残虐非道な出来事は、当然に人の心を壊し、滅茶苦茶にした。戦争に行く(行かされる、かもしれないが)ということ自体がすでに人の心を十分に脅かし、恐怖に晒し、心を鈍化させると思う。脅迫的な指令や命令により人の言動は自動化し、集団に同化してしまった心や精神が日常へ戻ったとき、自分が直面させられた理不尽や不道徳的な出来事を否定されないよう自身の行動によって正当化しようとする。それは「日常」にとってはるかに過剰な言動として表れる。非日常から日常へ戻って、そうしてから自分自身で省みることがどれだけ恐ろしく辛いことか、その経験をもって想像をすることはできない。
戦中であっても、自身が経験したこと、目の当たりにしたことを記録することの必要性を感じ、記録し続け、また戦後であるにもかかわらず戦中の主従関係が継続し残存していた収容所での人間関係の修復には民主主義が必要だと考え、行動に起こした人がいたことも知る。
そのような人が決して多くなかったのは明らかだけれど、主体的な思想から行動に起こそうとし周囲に働きかける必要はあったのではないか。その中にいながら、合間を縫うこと。周囲の人をできる限り信じて進むべき道を照らそうとすること。
戦争経験者と二世、三世の関係についての記事や、昨今のニュースから、被害者と加害者の関係について考える。
被害者と加害者は両端のように見えて、そうでないように思えた。何か「事件」が起こるとき「加害(者)」と「被害(者)」は分けざるを得ないものとしてある。けれど、その場以外で加害者の被害者としての側面があったのではないか、ということが気になる。被害と加害は連鎖するように思われてならないから。
自身が受けた被害について、そのあとの自分が生きるために、本人に必要な方法、求める方法でケアされなかったとき、他者への加害性を帯びて正当化されることがあるのではないか、という気がする。
その構造について考えを巡らせ、同じくそのような被害に直面した他者と声をかけあって連帯し、話し、怒り、悲しみ、悔しみ、自身が経験した理不尽さについて共有することが必要。
また、そのようなことを目の当たりにした周囲の人は「よくあること」と目を逸らすのではなく、少しでもこれまでと異なる方法はないかと手段を模索したり、考えたり、周囲の人を頼り、相談したうえで決めていく、当人を孤立させないためには、現実を過去から少しづつ「ずらしていく」ことではないか、と思われる。
そのようにしてしか、自分だけでは起こり得ない加害/被害の経験はなくならず、癒えていくことはないのではないかと思われた。
言葉にすれば当然のことに思われても、なかなかひとりでははっきりと行動に移していくことはいつも難しい。会社の課の、小さく多様な一人ひとりが持つ立場とそのギャップから生じる様々なこと、調整し続けても、治ればどこかが壊れる、ような緊張関係。意識しすぎだろうか。けれど。
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外国からのツアーで新宿駅のエスカレーターに一列に並ぶ人たちの中に紛れ込み、日常から束の間離れた気分を香水の香りの中で一時分けてもらう帰途。
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