・今日の周辺 2023年 葉の間をするするといく
○ 今日の周辺
この間の休みはエバーフレッシュの鉢替え、バスに乗って30分ほどの園芸店。
一回り大きいテラコッタの鉢と受け皿、5Lの土、肥料、それと、ボトルツリーがかわいらしく見えて15cmほどの小さいのを買って帰ってきた。
オーストラリアに自生する高木の写真を見て驚いた、こんな可能性を持った木がうちに。一昨年買ったモンステラも新しい葉が出て、元気そうで何より。
帰りのバスに揺られながら、懐かしい景色の中を大人になることができて嬉しい、とふと。
毎日お弁当を詰めて持っていく。
職場の近辺は他にもオフィスビルが集まっていることもあり、外に出れば広場のようなところにベンチがいくつもあって、屋外にお昼を食べることができる場所があることが心の安寧を保ってる。
最寄駅に早く着いたらそこで本を読んだりもできるし、
たった5分であっても、外のベンチで本を読みたいと思うことには、去年1年の習慣が自分に根付いていることにあるのだなあと嬉しく思い返す。
母から新たまねぎで作る常備菜のレシピが送られてきたので、新たまねぎと調味料を買って帰る。
さあ作ろうというところ、合わせ調味料の作り方の1番下に「1週間ほど常温で寝かせる」とあって。
先に言ってよ……。発酵調味料が美味しく出来上がるのが先か、たまねぎが傷むのが先か、気温がぐんと上がって春は、急に食べ物が腐りやすくなるので気をつけたいところです。
○ 最近のこと
職場で主に仕事を教えてくれている人が、能楽の笛をしていたらしく、少し能の話で盛り上がる。はじめて人とカジュアルに能の話をする。楽しい。
薪能は知っていたけれど、蝋燭能というのもあるらしい。教えてもらう。夢幻能という形式にぴったりすぎてため息出る。
滝口悠生『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』読了。
これだけ「わからないことがあった」とその都度書かれる文章ははじめて読んだ、2ヶ月半の慣れない場所での生活を経て、だんだんと慣れていくことや汲み取れることは増えていく、それでも「わからないことがあった」、あり続けたことを記録しておくことも滝口さんにとって大切なことであったということが伝わる。そしてそう書き留めておきたい気持ちは何かわかる気もする。そんな中でむしろ「わかるようになった」と書かれることは、相手の表情の変化や人との関わり方のスタンス、振舞い。読み進めるのを楽しませたのはそれらの描写だった。
10月22日の日記に書かれていたモンゴル映画についての話と周囲の反応、残念に思った。
滝口さんがアジア食材の店のおばさんに尋ねられた「あなたが小説で伝えようとしているメッセージはなにか」ということに対して、「読んでいる人が読んでいるときにとたとえば何か関係ないことを思い出したり考えついたりするのがおもしろい、あとに残らない読むあいだだけの経験みたいな?」と言ったことは、そのような作品が誰にでもあるべきで、そのためにその数は多い方がよい、これがそのひとつであればいい、という考えであると解釈する。その意味で、誰が書く文章にも意味があって、そのことはまず、誰の読む/書くの相互関係をも肯定することであると理解した。
日記の最後に登場するゴーキーの絵が、この本の表紙に貼り付けられた装画であると「あとがき」に書かれていて、驚いて、そして感動する。納得する。貼り付けられている、というのも良いと思えた。前年に参加した柴崎さんとの対談は栞として挟み込まれている。旅の日記は、こうしてその後でいろいろな形で付け足されてもいく。栞に掲載されているアイオワの地図も、読み終えたあとにあれこれ辿ってみたりして、楽しかった。
読み終えて、
植本一子さん、金川晋吾さんとの共著『三人の日記 集合、解散!』注文する。
滝口さんの前年に同じプログラムに参加された柴崎友香さんの『公演に行かないか?火曜日に』も図書館で予約してみる。
読みたい本たくさん、楽しみ。
話して伝わることってなんなのだろう、と思う。
生きているなかで何に焦点を合わせられるか、合わさざるをえないのかによって、見えるものも認識されるものも異なる中で、異なる世界を生きている互いが、言葉で指して伝わることと伝わらないことは?それがわからないから、探り探り、言葉にして話してみるのだろうけれど。
言葉はその場で通じたと思える体験とは別に、遅れて、私の(相手の)潜在的な側面を掘り起こすものとして機能したりもする。言葉から、ああこの人はあのことを知っている、と眠っていた側面が掘り起こされる、知らない人が、まるではっきりとありかを知っているかのように、自分も忘れていた側面を掘り起こす。話すほどに耕してしまう。話していておもしろいのは、そういうときだなあ。
○ あれこれ
「写真家・金川晋吾さんが考える、人を「好き」になること、恋愛のかたち」
「誰かと親しくなるときに、近づくことだけではなくて距離についても話すというのは、実際の場面においてはともすると「野暮」と言われかねないことだったりすると思います。「あなたのすべてが好きなんです」とか「あなたのすべてを受け入れます」みたいなことを言うのではなく、「自分がどういう人間で、どういうかたちでならあなたと関われるか」という、いわば条件のようなものについて話すことになり、交渉のようなものになってしまうかもしれません。それはいわゆる「ロマンティック」と言われるようなものとは、相性が悪いことだと思います。」
「ロマンティックっていうのがなんなのかは、これもはっきりとした定義があるわけではないと思いますが、何か余計なこと、野暮なことをあれこれ言わないことがよしとされているようなところがあると私は感じています。私としてはこの「ロマンティック」というものが台無しになってもいいので、距離について話せたほうがうれしいと思っています。むしろそうやって距離について話すことができることにこそ、私は「ロマンティック」な何かを感じるという言い方もできると思います。」
共感する。一般に共有、受容されている整頓されすぎた(だれのために?)恋愛というものの形式と、個人としての自分が抱える複雑さ、言葉にすれば行ったり来たりして、説明的になってしまうこと、自分として考えるなかで起こるああでもない、こうでもないということをなるべく割愛せずに金川さんによって文章にされことが、私にもとてもありがたかった。この複雑さが言葉にされることが、その言葉を待つことが、その状態自体を相手に渡す唯一の手段であるように思われる。
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休みの日、夕方になると、隣の家の子どもが、お風呂で水笛で遊ぶ音が楽しい。
天気のような自分を受け入れる、植物のように扱い、小さな成長を自分で喜びたい。