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・今日の周辺 『誰のためのアクセシビリティ?』 あぶくの中に/外へ
○ 今日の周辺
モノレールに乗って仕事に向かう。
最寄駅から乗る電車が運転を見合わせて止まってしまい、別の路線を利用して開き直ってのんびり向かう。
平日午前のモノレールはほとんど乗客がおらず、窓から見える景色はすーっと青く開けていて気分がいい。
○ あぶくの中に/外へ
田中みゆき『誰のためのアクセシビリティ?障害のある人の経験と文化から考える』読み終える。田中さんの単著として出版されるのを楽しみにしていた一冊。
田中みゆきさんのことを知ったのは2021年に渋谷公園通りギャラリーで開催された「語りの複数性」という展覧会で、身体の在り方に制限されない様々な語りについて、とても興味深く鑑賞した。思い返せば、自分が障害の周辺文化に関心を持ったこととその手法が繋がったきっかけがまさにこの展覧会で、それらを通じて自分自身の困りごとや戸惑いを自覚し始めたのもこの頃だった。2021年の11月、ちょうど3年前。会場構成は中山英之さん。関連イベントとして代官山蔦屋書店で行われた柳家権太楼による古典落語「心眼」を観に足を運んだのも記憶に残っている。
アクセシビリティとは「利用者が機器・サービスを円滑に利用できること」として使われる言葉で、この本では、「アクセシビリティさえ確保されれば公平な社会が訪れるだろうか?」という問いが投げかけられ、そうではないと言うことができる実状がそれぞれの障害文化の観点からはっきりと見えてくる。
この本を最後まで読んで思い浮かんでくるのは、これまで本を読んだり、実際に見聞きしてきたそれぞれの障害による困りと工夫の数々のことで、それらをひとつの「障害」という言葉で呼んでいることに対する違和感をあらためて覚える。「障害」と言ったとき、まず一番にイメージされやすいのは、障害のある人が日々直面しモヤモヤする個別具体的な出来事よりも、インペアメント(その人の機能障害)へフォーカスすることで、そのような最初の印象にすでに障害の社会/個人モデルの視点の違いが反映されているのだと気づく。
人によって様々な意味を持たされた「障害」という大きな言葉が閉ざす先に、多様で具体的な文化と世界があるのでは、なかなか実状は見えにくい。やはりそこには、分けられてきたことによる「馴染みのなさ」みたいなものがまず大きくひとつあると思う。
横道誠さんによる自閉スペクトラム症についての章は、自分自身で認識し直すのにとても役立った。
周囲の定型発達的な社会に合わせて働いていると、自分がそうでないことを忘れないとどうにもうまくやっていけない場面がたくさんあって、自分ひとりでそれらを両立させ続けるのは難しい。横道さんの著作がたくさん出版されていくのを知りながら、買っても読めないでいるのは、自閉スペクトラム症的な側面を自分では否定しているつもりはなくとも(むしろ強みになることは自分にとってたくさんある)、社会に出ると障害になりやすい、そのように扱われやすい偏見や先入観の方が多く手に取りやすく転がっているから。それらの全てを自分で受け取って考えて整理するのは負担が大きすぎる。自分のことを自分で知りたいと思っても、なかなかそのことに集中できないでいるのは、その周辺に触ると、フラッシュバックする自分ごとの経験があまりにも多いからだ。
自分が感じることは誰かが代弁することはできない、と思っているけれど、見ず知らずの他者から自分の状況を説明する言葉が出てくるとき、驚きやら安心やらで涙が出そうになることがある。
特に、6章「座談会・あいだのアクセシビリティ」は、困ったときの相談相手になってくれるような内容だと感じる。
それぞれの障害の具体性について、さまざまな障害に直面する人たちが集って話をするというのは、客体化されてきた「障害」という重く強い言葉の結び目をひとつひとつ丁寧に解いていくこと。マジョリティとマイノリティという、あらゆる属性に対する相対的な数の差はどうしようもない。だからこそ、数をカバーできる、数を問題としない考え方を持っていたい。
田中さんの本を通してそれぞれの経験について伺うと、その経験は人それぞれにまったく異なる。そのことをまずはもっと知りたいと思った。
それぞれの困りごととその場に直面したときに私は何ができるのかということを、いつ必要になるかわからなくとも、自分に蓄積していこうとする心積りをしておく、ということがまずひとつ関わっていこうとするきっかけになりそう。障害のある人はいつも、いつ何が起こるかわからないからこそ準備をしておく、という心積りと具体的な手法を持って生活をしていると思う。まずはその気持ちだけでも自分で持っておきたい。
「crip time」など、そのほかにも思わぬ方向に発想を転換する方法を収録した一冊。
田中さんは一冊の本に対して、よい面とそうでない面とその周辺をきちっと計量して同等に扱って提供したいということを始めから終わりの方まで貫いている感じがする。そのために読んでいてつらい側面もありながら、私にとって頼りたい新しい視線だと感じられる。田中さんもまた、当事者に出会い、その考えに触れるたびにぐらぐら揺さぶられながら書いているのだと伝わってくる感じもあって、そのことが読者を他人にしない良さもあると思う。
○ 「見るときどき見えない、のち話す、しだいに見える」
東京都写真美術館で行われたインクルーシブ鑑賞ワークショップ「見るときどき見えない、のち話す、しだいに見える」に参加する。主催は視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ。
『誰のためのアクセシビリティ?』で視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップの章を読んでいるタイミングでワークショップの開催を知り、応募する。機会の方がこちらに飛び込んでくる。
開催中の「アレック・ソス 部屋についての部屋」展を題材に、「さまざまな視点を持ち寄ることで、一人では出会えない新しい写真や展覧会の楽しみ方を発見」する、という趣旨で開催されている。
私の身近には視覚障害のある人がおらず、介助やコミュニケーション上のサポートなど専門的な知識と技術を持たない私は障害のある人と日常的な場面においてどのように関わることができるのかということを経験したく参加する。
ワークショップが終わって、言葉にしたくない胸いっぱいの気持ち。喜びや戸惑いや失敗や安堵感やらで心が汗をかいた感じ。
ワークショップの導入と参加者の自己紹介、鑑賞と合わせておよそ3時間のじっくりとしたプログラム。
言葉を交わす対象は目の前にしている美術作品についてである、ということがまずハードルの設定がちょうどよいなと感じる。近い関心を持った初対面の私たちが集まって話しているのはまずはこのワークショップにおいてのこと、という制約も大切だと感じる。
また、この場に力関係が生まれうるということがあらかじめ想定されており、導入の際に伝えられるのもよかった。見えない人と、光を感じ取れる人、見える人というグラデーションの中でものを見るというのは、二分でない面白さがあって、固定化された役割ができないということ、誰もにそれぞれの役割があるということが個々の主体性を引き出す。
そんなじっくりとした導入と前提共有のあとで、スリリングに面白く感じられたのは、作品と関連する個人的な経験や感覚にまつわることを聞いたり話してみることで、「そこまで行く!?」っていう主観の深掘りにすごく興味を引かれたり、参加者の意識をぐーっと引き込んでいく、リードしていく力があった。
ワークショップを終えて遅めの昼食をとってから、もう一度展示室に戻ってみる。
キャプションを読まない鑑賞に自信がつく、というか、読まなくても大丈夫、と前向きにそう思うことができる。自分の想像以上にキャプションが与える先入観ってあるのだなと気づいて、事実としての手がかりを得ずとも作品を鑑賞することはこんなふうに可能なのだということが経験としてわかる。
その反対に、ひとりで作品を見ることの方に戻ると、自分が見ているものしか見えてこないことに何か物足りなさやを心細さを感じて、居ても立っても居られない感じが残った。これまであんなに充足感のあった美術鑑賞が、何かぽつんとした感じで静かで寂しい。
あんなふうに目の前が見えてくることってひとりではありえない。
あの経験そのものを言葉にすることってできない、そのときの時間や感覚と結びついていて、言葉を交わしていたはずなのに、それらは言葉だけの要素として記憶されるのではない。「見ている」よりも「聞いている」に近かったのかも、見ると聞くを何度も切り替えて何往復もする体験。
ナビゲーターのお二人の話の運び方が程よく、何に対して踏み込んだらいいのか、という戸惑いの緩やかな指針になってくださるのが、言葉を発していくのに心強かった。
実際にワークショップを経験をしてから『誰のためのアクセシビリティ?』を読み返すと、自分の言葉がその場に対してどのように働きうるのか、ということの実感が湧いてくる。
あの時間を長く咀嚼してる。あの空間には発言を否定することが起こらない。だからこそ心がけたいのは、見えている私は、自分が自覚する以上に「正解」にならないようにということ。ワークショップを終えてからのモヤモヤにひとつ答えが出る。中心ができてしまうことはやっぱりあまり望ましいことではない。
もっとわからないことの方へ分け入っていけるよう、目よりも耳を傾けていきたい。
次の週末、『ソーシャルアート 障害のある人とアートで社会を変える』という本のなか、「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」についての章を読む。
「見る」→「見えた」という一瞬の間には時間の流れがあり、各断片から文脈を見出すプロセスが存在しているのだ。作品を言葉にするという作業は、「見る」→「見えた」の一瞬を引き延ばし、自分と外部がつながっているという文脈を発見する作業なのだ。
見えている人の「見る」→「見えた」のプロセスは、あえて口に出さない限り自分以外の人には共有されず、最初から「見え(てい)た」ことにできてしまう。けれどそうではない、時間の流れを伴って当然に起こっているそのプロセスを都度言語化することによって自ら証明しながら他者に共有する。見える人は「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」を通して、そのプロセスの存在に自分で気づいてはっと驚いたりする。その時間ごと他者と共有することができる心理的安全性も担保されることまでもが念頭に置かれているからこそこのワークショップは楽しく面白い。役割が固定されない、ということは、誰かに「(教え)なければならない」ようなプレッシャーが偏りにくく、誰がどのような経験をしてもよいということを支えている。
また、見て感じることの違いやズレって、日常生活の中、特に会社でのコミュニケーションとか、意見を合わせることを目的とする会話においてすごく気になるものだ。今の発言ズレてなかったかとか、話の進行方向の邪魔になっていなかったかとか、自分の意見を述べながらも、円滑に運ぶよう気にかけ続ける。少しでもズレると指摘してくる人さえいて、それがその都度すごくストレスだ。同質的な環境におけるズレなんて僅かなものだろうって思ってしまう。それよりも、異なりの方が喜ばれる対話の場は羽が伸びるような快さがある。
あの日のことのモヤが少しづつ晴れて、楽しかったことの具体的なあれこれがたくさん自分の方へ返ってくる。面白かった。
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秋の日が差し込む葉の色を変える木々の間に、ようやくそういったことに気がつくことのできる自分に気づく。
時間が慌ただしさを忘れてじっくりしてきた。
そうかと思えばどうだろう、年の瀬に向けて時間は焦ってぐるぐる進み始めるのかもしれない。