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・今日の周辺 戸惑いを共に待つ、哲学対話
○ 今日の周辺
今朝、少し早起きをして乗った電車に具合のすぐれない方がいて、数分止まる。
ターミナル駅に向かう満員電車、ラッシュ時の少し張りつめた雰囲気のなか「またか」というような皆が肩を下ろす諦めのなかで、それくらいの力の抜き具合がいいのではないか、とふと、ほっとするように思う。
今朝、具合のすぐれなかった方を責めるのではない「そういうときあるよね」という感じ、というか。責任を転嫁する対象がなく曖昧な状況にそれぞれがそれぞれに納得しようとする、というか。
なんと言ったらいいのかわからないが、そんな空気に少し救われるような思いで運行再開を待って立っていた。
○ 戸惑いを共に待つ、哲学対話
少し時間が経ってしまったけれど、11月下旬に行われた哲学対話「おずおずダイアログ」に仕事帰りに参加した。はじめての哲学対話。
11月初めに「夜ふかしの読み明かし」シークレット読書会に参加してから、なんとなく「哲学対話」の機会を探していたのと、NPO法人・抱樸の「希望のまち」プロジェクトのクラウドファンディングが11月末を締切としており、今回の「おずおずダイアログ」への参加費が全額寄付されるということで、残り数日のところ僅かでも役立つことができればという気持ちで参加を決める。
出社する前に寄る喫茶店で「おずおずダイアログ」の概要に目を通す。
今回はドキュメンタリー映像を上映してから対話をはじめること、発言しなくても聞くだけでも大丈夫、と書いてあったことで、話し合うことに共通の具体的な題材があり、その上で聞くだけになっても大丈夫なら、ということも参加を決める後押しとなった。
はじめての参加ということもあって、今日は話を聞きたい、という気分で会場へ向かう。平日の夜に、十数人の会場参加者と、二十人ほどのオンライン参加者が集まった。
哲学対話の導入とドキュメンタリーの上映、参加者の名前の紹介に続いて、問い出しというドキュメンタリーを見て浮かんだ問いを共有する時間と哲学対話が合わせて1時間ほど行われる。
はじめのうちはモノローグともダイアローグともいえない、ぽつりぽつりとした感想のようなものが空間に転がっていくような感じで、それらの言葉を手がかりにそれぞれが順々に言葉を連ねていく。
そんななかで私は問いもはっきりと言語化されないまま、周囲の声に耳を傾けながらそれらの言葉を受け取ってみる。
視聴したドキュメンタリーは、「生き直したい」というタイトルの20分ほどの映像で、抱樸が受け入れたとある男性について。以前新聞記事で読んで知った方だった。
帰り道、駅へ向かう目黒川沿いを歩きながら、自分の中にこんがらがっていた思いや言葉が急にほぐれはじめた。
男性は「抱樸」に引き受けられたから、このようにテレビのドキュメンタリーで取り上げられ、既存のマスメディア的手法のストーリーにのせられて注目された。私もその男性のことは抱樸の奥田さんとの新聞記事で知ったけれど、そうでなかったらどうだったろう、そうでなかった場合、私はその男性のことをバックグラウンドを含むいくつもの側面を知り共感をもって眼差すことができていただろうか?ということをまず思った。それが私の問いだった。
下関駅舎が放火により全焼するという、大きな事件があったことは記憶の片隅に置かれたかもしれないが、それがどのような経緯で行われたのかということを知ったり、どうして、と思って知ろうとしたり、その男性の立場から考えようとすることを主体的にできただろうか?
その男性がひとりで抱えさせられた孤独というのはそのような、例えば彼が何度も行った放火というアラート、を自ら最大のリスクを冒して起こしたとしても手を差し伸べてもらえない、関心を持ってもらうことができなかった、というほどのものなのではないかと想像する。
それだけ何度も、多くの人に伝わるかたちで狼煙を上げても、男性は11度も、求めるかたちで救われることがなかった。だからその度に「生き直したく」放火を繰り返したのではないか。
言葉が遅れてやってくる。
それでも戸惑う時間を一緒に待ってくれたり、言葉を交わしながら共にしてくれる人がいたということが、結果的に言語化することに繋がったのだと感じる。言葉が遅くて、その場には間に合わなかったとしても。またそれが、見ず知らずでたった今出会って集まってそうして去っていく人たちだったということも加えて何か嬉しく感じられる。
話し手の両手に包まれてじっとしている鳥、かわいかった。
哲学対話はその日に集まった人ありきで、その場の雰囲気も問いも、どのようなものにもなりうる、というのがよいところ。その場の雰囲気をつくるという、ときにプレッシャーになるような役割が全員に配分されるような感じも程よい緊張感を共有するのに役立っていると感じた。
話さないでいても、その場で放っておいてもらえるということもまたありがたかった。
○ 『「逃げおくれた伴走者」分断された社会で人とつながる』
哲学対話を終えて、「希望のまち」クラウドファンディングに間接的に参加したということで「抱樸」についてもう少し知りたいと思い、奥田知志さん『「逃げ遅れた伴走者」分断された社会で人とつながる』を読む。
2020年前後に書かれたり、話されたりしたエッセイやコラム、対談を含む内容で、抱樸の成り立ちや日々の出来事、その周辺で起こる市民とのやり取りなどについても知ることができる一冊。
特に面白く読んだのは「九右衛門さんが長兵衛さんを訪ねるという時代劇のような旅をすることになった」という話。
伊藤亜紗さん ・村瀬孝生さん共著『ぼけと利他』に載っていた、老人ホームになかなか行こうとしない人に「そろそろ船が出ますよ」と言って一旦車に乗ってもらうエピソードや、「家に帰る」の一点張りの人と「ここで少し待ってみましょうか」と偽物のバス停のベンチで時間を過ごしてみるとか、現実には存在しない時間と空間を共にしてみる、同行してみるという話がやっぱり好きだ。
その理由はまた異なるけれど、飯山由貴さんと精神障害のあるお姉さんとの「あなたの本当の家を探しにいく」という作品も好きだった。
自分が感じていることの全てを言語化し、他者に伝達できるとは限らない。むしろ様々な制約があって、伝わっていかないということの方が多いのかもしれない。そういったことに対して他者が、わからないけれど、その世界のなかに入ってみようとする、経験してみる、ことで伝わっていくことってあるのではないか、と予感させる出来事。そういった出来事がぽつぽつとでもあるということを知ることが私が本を読むことの楽しみのひとつでもある。
奥田さんの、手の離し方、に何か感じるものがある。
それは一人ひとりを「信じている」ということと共にあって、「信じている」という言葉や態度に確実性はないけれど、だからこそ、信じ合うということを成立させる。路上での出会いは互いに「次はあるのか」という緊張感のあるものだと想像する。それでもただ諦めたり、失望したから手を離すのではなく奥田さんが「信じる」からこそ、手を離(す)せる、のではないか、そんなふうに読んだ。
「電車に揺られながら僕は延々と想像し続ける。すると彼はもはや他人とは思えなくなった。」というところに共感するところがあり、心に残った。
『逃げおくれた伴走者』を読み終えて、この本の執筆による収益が「希望のまち」の建設のために役立てられる、ということをあとがきの一番最後で知る。
集まること、対話すること、知ることのきっかけをいろいろと作っていただきながら、その支払いが自分の意図以上の活動に用いられることの意味に、さらにまた何かしていただいたような気持ちになる。支払った額がその金額以上の価値と結びついた、私ひとりにこの金額でそのようなことはできない、と、そこが「まち」であることをありがたく思った。
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12月も半ばを迎えて年末モード、ラストスパート。
毎年この年末の雰囲気が苦手だ。どこへ行っても何か人の気持ちは焦っていて、伝えたいことが伝わっていかない感じ、というか。毎年この時期はこの流れに乗るしかないのだとなんとなく諦めている。
相変わらず読むことは追いつかないけれど、下半期に買った本の紹介も年内にやりたい、スキップとローファーの新刊も出る……!