「みえない」体験をしたとき、「みえている」とき以上に周りの人のすがたやこころがみえた。
息子の夏休みの課題の中に、読書感想文があった。
図書のリストが70冊くらいあり、新書やらまんがやら絵本やらと
ジャンルが様々で、見ているだけで面白かった。
この本はそのなかの1冊だった。この本を読んで思い出したことがある。
以前、あるワークを行なった。
2人1組になり前後に並び、前の人は目を閉じる。
後ろの人が前の人の両肩に手を置いて、前の人を誘導するという方法を
交代で行い、視覚以外の感覚を感じるといったものだった。
(何年も前のことなので、うろ覚えです)
自分が前に立ち、目を閉じたまま歩いたときに最初に感じたのは、不安と恐怖だった。
前に進むことそのものが怖い。何かにぶつからないだろうか、こけてしまわないだろうか。そう思うと、足を前に出すことを躊躇してしまう。後ろの人に押してもらっているから、なんとなく前に進んでいる感じ。
広めの体育館のようなスペースにいるので、段差につまずいたり障害物にぶつかることはまずない。人数だって7~8人だったと思うので、3組か4組でワークをしている。十分にスペースはあるので、不意にお互いにぶつかることはほぼない。
ここで、後ろの人の存在が全く頭になかったことに気づいた。後ろから優しく、そっと押し出すように方向を教えてくれていた。この誘導に身を任せれば、安全に歩くことができる、はず。
頭では理解できても、からだはすぐに安心できなかった。少しずつ少しずつ力みが抜けていって、ようやく歩くのに抵抗がなくなってきた。
数分後には、少しずつ安心して歩き回れるようになった。
みえないから視覚で確認はできないけれど、いつのまにか、かすかな足音を聞こうとしたり、風のような空気の動きを感じたり、周りの人の気配を感じたりしながら歩くようにもなっていた。
ほわーんとした感じで、人が近くにいるとか、遠ざかっていくとかがわかるようになってきたような気がする。
「このまま右に曲がってください。」
「オブジェの前で止まります。」
たしか、こういった最小限の口頭指示はあったような気がするのだが、
それより先に、後ろの人の手から感じるわずかな圧力で
どっちの方向に誘導したいのかがなんとなくわかってしまうのが
興味深かった。
途中、どっちの目的を選ぼうかとか、右と左どちらにしようかとか
後ろの人がすぐに決めきれないとき、
頭で考えたそのままに、それぞれの手の圧が肩にかかる。
ほんとにわずかな圧なのだが
ちょっとぶれた感じで私にも伝わってしまい、
どう動いたらいいのか少し不安になった瞬間があった。
このときの圧の感触のぶれは、
みえないことと同じくらい怖かったような気がする。
あとでフィードバックをしたとき、このときのことを聞いてみたら
あっちにも連れて行きたい、
いやこっちも面白そうだ、
と、前にいる私のために、歩くコースをあれこれ考えてくださっていたとのこと。あの迷いやぶれは、思いやりや楽しませたい気持ちから生じたものだった。
また、パートナーチェンジしてワークを行うと、さっきの人とまた違った誘導の仕方を体験できた。人によって肩に触れる圧も違うし、左右に曲がることを伝えるタイミングも違う。
伝えるのが早すぎると、前の人が曲がろうとするタイミングも早くなってしまうことがある。遅すぎると、あわてて曲がらなければならなくなり、ちょっと危ないと感じることも。
また、後ろから押し出す手の柔らかさというか、
優しいと思った手とちょっと強めの手があった。
優しければよいというわけでもなさそうで、
圧が弱すぎると伝わらないこともある。
「みえない」と
ペアになっている人の姿を、
どんな髪型なのか
どんな色のどんな服を着ているか
はわからないけれど、
のんびり屋さんかせっかちさんか
笑っているか怒っているか
はわかるような気がする。
そして、背が高いか低いか、
スリムなのかぽっちゃりさんなのかは
手の感触でわかる部分もあるかもしれない。
「みえない」体験をする前は、
みえない=わからない
と思っていたけれど、
想像していた以上にわかること、
感じ取れることがあったように思う。
人間の感覚は、触覚も聴覚も嗅覚もある。
「みえる」と視覚で感じるものですべてを判断しているような
気になっていたけれど、視覚以外の情報量の多さを感じた体験だった。
たった数分間の体験だったが、
みえなくても、近くにいる人やすれ違う人たちの、人となりは十分伝わるんじゃないかと思った。視覚にごまかされないからこそ、感じ取れる部分があるかもしれない。
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