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音楽と批評:確かなキュレーターに認められるということ 【2022年の五悦七味三会を振り返る⑤】

「いいもの」ってなんだろう?
「たくさん売れたものがいいものなんだとしたら、世界で一番おいしいハンバーガーはマクドナルドだ」というのは誰の言葉だっただろうか。

まあよく聞く話かもしれないんだけどさ。
自分がミュージシャンとして生きていこうとしている上で、自分へのリマインドというか、戒めのために書いている、と思って読んでください。

そういうわけで。
僕はマックのハンバーガーも好きだけれど(倍ビッグマック最高)、あれが世界一美味しいハンバーガーとして100年後の地球に事実として残るのはいささか納得ができない。
だってアメリカにホームステイをした時に裏庭のBBQグリルで焼いてもらったハンバーガーとか、和牛を叩いてミンチにしましたみたいな日本の高級バーガー屋さんとか、そもそもマクドナルド以外にもっと美味しいハンバーガーレストランなんてたくさんあるだろう。
これには大多数の人が納得してくれるんじゃないだろうか?
どうだろう(いやマックも美味しいよ?)。

「たくさん売れたものがいいものなんだとしたら、世界で一番美味しいおにぎりはコンビニのおにぎりだ」
日本人的にはこっちの方が共感しやすいだろうか?

馴染みのある食べ物なら話は早いのだけれど、これが音楽になってくるとややこしい。

そこで今日の五悦なんだけれど。
「好きなもの」と「いいもの」は必ずしも一緒じゃないよね?という話。

五悦④:Spotifyのオフィシャルプレイリストに選ばれた

「いいもの」ってなんだろう?ということを考えるときに、考えなくてはならないポイントは3つあるように現時点の僕は思う。
「クオリティ」「歴史的な価値」「それ以外の何かしらの点で鑑賞者が魅力的だと思うか」の3つ。

最初に3つ目の「魅力」から片付けたい。
なぜならこれはここで本当に僕が語りたい意味での「いいもの」とはちょっと角度が違うから。

音楽を「エンターテイメントビジネス」という風な角度から見ると、どれだけたくさんの人を熱狂させるか、どれだけたくさんの人を笑顔にするか、追いかけさせるか、お金を使わせるか、そういったことが指標の一つとして大事になっているという事実がある。
それは例えば、「歌ってる人が超イケメン」とか「たくさんCDを買えば本人と知り合いになれる(かもしれない)」とか「めっちゃ手軽に聴ける」とか、「ライブのMCがめちゃめちゃ面白い」とか「めちゃめちゃ貧乏な家に生まれてそこから努力で成功していく物語がアツい」とか。
あるいは「なんか芸術的っぽいからすごいっぽい」みたいな外面マーケティング的な観点もあるかもしれない。
「ファンを獲得するにはこういうことをアピールして刺さらないとダメだ」とさえ言われることもある。
まあそれもわかる。
そもそも現代において音楽はほぼ必ずといっていいほど映像と共にパッケージされていて、本人の「映像」と「音楽」をほとんど切り離せない状態で認識している人も多く、音だけを聞くということはあまりないのだろう。
そうなってくると確かにどこまでを「副次的」というべきなのかというのは難しい話ではある。
それにこれら全てを兼ね備えた音楽というものも存在する。
が、いずれにせよこういうビジネス的な価値は、純粋な「音」そのものではない副次的なことによってもたらされることが多いと思う。
だってわかりやすいもんね。
だからといってこの「魅力」という項目は価値がないとか、無視していいとかってことではないと思うから、項目としてはこうして入れたわけである(まどろっこしい言い方だな)。
事実、音楽だけで暮らしていこうと思うと、今のこの世界では音楽をビジネスと完全に切り離すというのは難しい。
この世界ではお金が必要ですもの。
だからこの「魅力」という項目は、今の「お金が力学となって社会を動かしている世界」で、音楽を社会的な役割だと考えるならばどうしても検討に入れざるを得ない項目だと思う。
成功しているミュージシャン(プロダクション)は、ちゃんとこういう設計をしている。
資本主義ミュージシャン(プロダクション)としてすごい能力だと純粋に思う。その結果「いい音楽」がたくさんの人に届く、そういう事例もたくさんある。
そしてそれはすごくいいことだと思う。

でも、これは3番目。
というかここで僕の議論したいこととはちょっと角度が違う。
応援してくれる人がいればどんなに下手な弾き語りでもそこでは評価されたりするけれど、それが「いい音楽」か?と聞かれるとそうではないこともある。
でも、同時にそれでたくさんの人が笑顔になるのなら、そのコンテンツ自体にはとっても価値があるよね、とは心から思う。
(あ、なので、いつも僕の音楽を聴いてくれている方には僕は本当に心から感謝しているんです。詳しいことは別によくわかんないけどただいいなって思ってもらえたらそれでいいんです。ありがとうございます…!)

でもでも、志を高く持ったミュージシャン見習いとして「いい音楽」かどうか?を考える時には、これはやっぱりちょっと別角度な切り口な訳で。
「いい音楽」かどうか?を考える時には、副次的な魅力、ビジネス的なパワーはそこまで大事なことではないと僕は思う。
だって売れなくても「いい音楽」はあるし、(まだ)知られていないけど「いい音楽」はたくさんあるもの。

そこで「クオリティ」について。
この「クオリティ」と「(資本主義ビジネス社会を当たり前に血肉に織り込んだ上での、その社会への)インパクト度合い」を混同しがちになることが多いように思う。

でも「音楽としてのクオリティ」というのは、同時代の社会情勢がどうとか、社会構造がどうとか、そういうものとは切り離して考えるべきなんじゃないかな。

例えば、黒人差別が当たり前のように社会に存在した時代のアメリカで残された、黒人ミュージシャンたちによる素晴らしいレコードの数々がある。
それは同時代的には全く世界に認知されることも、もちろん「ヒット」することもないわけだけど、時を経て、当時の時代背景から離れた文脈でそれらの音楽と対峙すると、客観的にいかにその音楽が素晴らしいかわかるし、今日ではそれらに文句をつけるものはあまりいないだろう。
だけど当時の多くの人々には「黒人の音楽」というだけで評価されなかった。
どれだけ多くの現代の「いい音楽」がそれらを直接的ないし間接的に礎にしていることか。

例えば、竹内まりやさんのプラスティック・ラブ。
もちろん日本では同時代的にもたくさん聞かれた音楽だろうけれど(発売当時のレコード売り上げは1万枚以下だったそうだが)、インターネットが整い、世界中の誰もが世界中の音楽にアクセスできるようになった今だからこそ、これほどまでに世界中の音楽ファンに聞かれ、そのクオリティが知られるようになり、それを機に日本でも再評価されるという流れになっているわけで。
発表当時から今と同じような評価をできていた日本人はどれくらいいただろうか?
もちろん、発表された当時からその音楽は全く変わっていないし(同じ音源なんだから当たり前だけど)、その「中身」「クオリティ」は変わらずとも、時代背景によって評価が変わるというのはマイケルジャクソンにしてもビートルズにしてもクイーンにしても、多分よくあることなのだ。

作品発表のその時は爆裂に批判されても、後になって手のひらを返したように評価されることってのはよくあることなのだ。
地動説を唱えたコペルニクスだって、進化論を唱えたダーウィンだって、同時代的に、今ほどの尊敬や賞賛を浴びていたかと言われれば全くそうではないだろう(というかむしろ逆か)。
死んでしまってから評価される人だって、たくさんいる。

だから、いかにその作品や考え方が「時間の審判」を通過するか、ということはひとつとても重要な評価軸になる。
全ての作品の価値を同時代的な評価、ましてや「今週のバズり」みたいな短いスパンでの評価で測るのではなく、もっと長い目でみないとその本当の価値を見抜けないという事態に陥るんじゃないかな〜、と思う。

うん。
これが公式プレイリストの話に繋がってくるのでちょっと待っててね。

「歴史的な価値」については、もう少しわかりやすいかな。
例えば、初めてエレキギターという楽器を考えて作り出して、それを効果的に使って録音した音楽というのは、正直どんだけ下手くそだったとしても、価値がある。
もしくは、そもそも歴史上初めて「録音」された音楽、とか。
録音されてなくても、歴史上初めてピアノという楽器を作り出して演奏した瞬間、とか。
こういうのはもはや「発明」な訳で。
これには絶対的な価値がある。
新しいことを生み出す、新しい発明をする。
例えばビートルズが逆再生の録音をしたり、ラップという音楽を発明したミュージシャンがいたり、パソコンで音楽を作り上げた人がいたり…。
これらは不可逆な人類の歴史上の点なわけで、それをやったそのこと自体に価値があるわけである。
もっと規模を小さく考えると、例えば初めて日本語でロックをやった人、とか。初めて日本語でR&Bをやった人、とか。
脈々と人と音楽の歴史が続いていく以上、その道中で何かこれまでにはなかったものを生み出した人間、もしくはその「点」というのはもうどうやったって評価されざるを得ないものである。

さて、この「クオリティ」と「歴史的価値」の二つをきちんと評価してくれるのが「批評家」という立場の人間である。
「この音楽が好き」とか「(最初に書いた)魅力」で音楽を楽しむ人は(あるいは同じ人でも時と場合によるかもしれないけれど)、あくまで「鑑賞者」もしくは「消費者」的立場で純粋に楽しむ人たち。

批評家はその広い知見と歴史的な網羅性によって、一般的な消費者よりも少し高い確度でその作品の「客観的なクオリティ」とか「歴史的な価値」というのを見逃さないでいられる人間なはずである。
日本語の「批評」ってのが誤解を生みやすい言葉なのが勿体無い。
そのフィールドにおける本質的な価値を見抜ける人、っていうことだと思うんだけど。
「なんか偉そうに文句言ってる人」っていうイメージがあるけれどそうじゃなくて、「いいものをちゃんと見抜ける人」ってことだと思うんだよね(そうであってほしい)。

で、今日の音楽の評価のされ方として、「ヒットチャートに入る」というのと「キュレーターによるプレイリストに入る」というのがある。
前者は「鑑賞者」「消費者」によってどれだけ評価されたか。
そして後者が「批評家」によってどれだけ評価されたか、なのである。

別に「批評家が偉い」と言いたいわけではない。
そのことはここまで読んでくれた人になら伝えられているといいなと思うんだけれど(ていうかめっちゃ長い文章をここまで読んでくれてありがとうございます。)、どちらも現代の音楽の評価としてあっていいし、ヒットチャートも超いい評価だと思っている。

けれど、僕のように20歳超えてから音楽を始めて、いささかクオリティに自信のないミュージシャンからすると、この「公式のプレイリストに選ばれた」ということはすなわち「公式の批評家から評価された」ということであり、その音楽そのものの「クオリティ」もしくは何かしらの点において「歴史的価値」が認められたということであり、もうちょーーーー嬉しいことなわけである。

2022年の五悦のその4、公式の批評家であろうキュレーターさんに、自分の音楽を評価してもらって、プレイリストに入れてもらえた、ということ。
自分が音楽を見よう見まねで始めて色々作っていて、ようやくそっちの側面を評価してもらえるくらいの技術レベルになってきたのかな?どうかな?という段階にこれたこと、それがたまらなく嬉しかったわけです。
とにかく、Spotify公式のキュレーターさん、ありがとうございました。
(またこの名前も知らない関係性ってのがいいよね。)

そういうわけで。
どっちも大事だと思うの。
わかりやすく、たくさんの人に届く音楽。
確かなクオリティと質を持った音楽。
僕は二つを兼ね備えたミュージシャンになりたくて、今はクオリティがまだまだ欠けていると思っているから、これがとにかくめちゃめちゃ嬉しかったわけよ!
同時に何もわからないままでも応援してくれている人も大切にしたい。

まあ結局どっちも入るのが最強だよな。
頑張ろう〜!

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