泣きたいだけ泣いていい
どうして、人は
『泣くこと』
イコール
弱いこと
駄目なこと
未熟な人間がすること
と、決め付けるのだろう
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* *
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母が、突然泣き出した私を見てオロオロしている
~ ~ ~ ~
自分の感情や欲求に蓋をしている人間は、
他者の感情や欲求についても理解すること・受け止めることは出来ない。
例えそれが家族であっても。
血の繋がりがあったとしても。
~ ~ ~ ~
そんな母に対して、
わたしはずっと、
「どうしたの?」
「なんで泣いているの?」
「話してごらん」
「ぜんぶ聴くから」
と、ただ
「ありのまま」を受け止めて欲しい。と願ってきた
無理矢理に泣き止まそうとするのではなく
他のもので気を引いて機嫌を取って誤魔化そうとするのでもなく
いつまで泣いてるの!!
いい加減にしなさい!!
と怒鳴りつけるのでもなく
ただ黙って、
私の拙い話、
拙い言葉、
拙い思い、を聴いてほしい。
と、物心ついたときにはすでに
自分の勝手な「母親像」を
母に求め
母に押し付けて 生きていた。
それが「叶わないこと」だと
ようやく気付いた小学校中学年くらいには
母の前で泣かなくなった
母に本音・自分の素直な思いを伝えようとすることを止め始めた
母の前では「無表情」でいるようになった。
母に、
自分の思いを伝えよう
素直な気持ちを分かってもらおう
とする努力を諦めた。
*
普段は「見て見ぬフリ」を決め込む母が
いよいよ私のことを精神科に連れて行こうとしている…
* *
* *
* *
だけど、わたしは知っている。
わたしは私の
「弱さ」も「強さ」も
「醜さ」も「耀き」も
「影」も「光」も 知っている。
むしろ、
人前で、どころか、
家族の前・親の前ですら、
悲しいとき
辛いとき
それから、
感動したとき
嬉し泣きしたいときにも
「素直に泣くこと」
「涙を流すこと」
の出来なかった私が、
そうすることを自分に許せなかった私が、
こうして、
「素直な欲求」に蓋をせず、
ぼろぼろと泣けているのだから
これは、素晴らしき成長
誉れ、なのだ。
がんばったね、わたし。
えらかったね、わたし。
沢山たくさん、
泣いていいんだよ。
これは、
感情の浄化だから
単なるクリーニングだから
それで良いんだよ
泣きたいときは泣きたいだけ
泣いたらいいんだよ
叫びたくなったら
叫んだっていいんだよ
よしよし。
痛いの痛いの飛んでいけ!
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だれが聞いていなくても
わたしは私の声を 私のすべてを
ちゃんと聴いている
ちゃんと聴いているからね
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