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短文 ・ 人によって違うの意味

小学生の頃に日本人ならもれなく出逢う
国語の教科書にある
詩人・金子みすゞの「わたしと小鳥とすずと」

あれがすべてを物語っている。

比べる必要はない
競争に本質はない、ということを。

みんなちがって、みんないい
ということを。

そしてそれが、多様性の本質。

妙なルールや空気を作ること
人の考えを同じ方向に先導すること
ではない。
それは多様性とは真逆だ。

多様な者通しが
それぞれに互いを尊重することが
多様性の本質だ。

元々ある自然体系を壊すような
いま世界中に流布されている多様性は
むしろ本来の多様性とは真逆のものだ。
生まれつきのジェンダーや
子供時代の性別に対する個人的な違和感からの
あくまでも個人的な気づき
以外の
支離滅裂な話や、
明らかな嘘とわかる話までもが
「多様性という正義の言葉の悪用」によって
さも護られるべきものとして扱われたりする。
これはあまりにも怖いことだ。

そしてこれを否定するのは
そこに何か利益がある人間だから。

誰かの都合よく
自分を利用されるつもりがないのなら
誰かに都合よく利用されないよう
自分自身の「個」という人格を築かないと
何も気づかず漫然と生きて流されたら
間違いなく
「みんなちがって、みんないい」
とは真逆の方向に
自分自身を塗り固められる。

今の時代は、あくまで例えばの話
観葉植物の育て方の正しい方法として昔からある
「水やりはその植物に合わせたペースで適度に行い
また必要な植物には日光を当てる」
という自然に即したものに対して
極論の例え話だけど
「水じゃなくてコーヒー牛乳でもよい」
みたいな話までもが多様性とか言われている。
本当にそうなのか?と疑う必要は確実にある。

そして何よりもちゃんと
自分で自分を護れる人間になる、という
ちゃんと人として
最後まで生きる能力を持つ為には
自分ひとりの時間を持ち
自分ひとりと向き合い
辞書を引いて言葉の意味を知っていきながら
まず自分自身の考えや気持ちや想いに
ただ黙って寄り添うこと

これが大きな鍵となる。

言葉だけに流されない
自分自身をつくっていくことが
本来の自分に気づくこと
本来の自分を護ること

このことに必ず繋がっていることも含めて
今日も僕自身の体験・体感を通して書き残す。

二階堂新太郎
2024.09.05(木)

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