言葉 ・ 才能ある天才たちへ
今日さっきランチを食べた店は
ブランド米を使っていたそうだ
しかし全くお米の美味しさを感じられなかった
僕はお米が好きだ
日本の旅先で出される
その土地の米をその土地の水で炊いた
みたいなご飯が出された日には
お代わりが止まらなくなる
ただここで気づいたこと
例えブランド米を使ったとしても
そもそもお米(コメ)の炊き方を知らない人が
いい加減な炊き方をすると
全然美味しくなかったりする
また、米が良くても水がダメだと
そのお米が持つ本来の甘味や旨みは出せない
天才がこの世に生まれても
どんな人に出逢い
どんな環境で育つかで
その才能が生かされるか殺されるかも決まる
そして自分の出来る限りの
すべてを尽くせば
必ず出逢える人もいれば
その才能の種類によっては
映画作品「Winny」にもなった
日本史に残るレベルの天才・金子勇さんの様に
社会からその才能を抑圧されることもある。
しかし殆どの場合はそうではない。
その本人の「運」も含め
その本人の持つ天性の才能を
その本人、自分自身が大切に守り育てたのか。
時間をかけ、心を砕き、人と関わったのか。
つまりどこまでその目標に向かったのか。
言い訳なしで
諦めなかったのか。
人のせいにしなかったのか。
もちろん、生まれ育った環境から
抗えないこともたくさんある。
しかしそうではない人
やれるはずの事をやらずに人のせいにしている人は
過去の僕自身も含めて世界中に星の数ほどいる。
日々、自問自答の連続。
自分自身との時間の積み重ねだという事は
大昔から変わらず語り継がれている。
つまり、
自分自身を何かの分野で
"天才だ" と自負するならば
自分が自分をどう磨くのか育てるのか。
自分自身というブランドについて
誰よりも知っている事こそが肝心だと言う事。
しかし自分の子供に
この言葉をかける親は
果たして良い親なのかというとそうではない。
子供がこの言葉を学ぶのは家庭ではなく
その道の先で出逢う人であるべきだ。
なぜなら親のあなたは子供の才能の道の
プロでもなんでもないからだ。
そして自身の強烈な好みの先でもし
自分という「才能」を感じたのなら
その「才能の育て方」について
自分自身が持っている
自分の具体的な魅力から
自分の苦手なこと
自分にはNGなことなど
その才能の持ち主は自覚している必要がある。
そして極めてストレートに言えば
ここまで出来なければ
「天才ではなかった」
という事を受け入れざるを得ない。
何故なら僕らは農作物や工芸品のような
"造作されたブランド"ではなく
自らどの様に暮らし、生きるのか
その道を選び取れる「人間」なのだから
きっとそれはそれで
何か別の道に"本望"が待っているだろう
二階堂新太郎
2024.08.20(火)