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物理のテストでのカンニング騒動を受けて

こんにちは、きゃはりんです。大学三年生です。

以下の話は、私が通っているアメリカの大学で起きたことだ、という前提を踏まえて読んでいただきたい。

三週間ほど前に受けた、物理(流体力学)の授業の中間テストで、大規模な不正行為があったことが発覚した。

この記事では、それに対して文句を言いたいのではなく、

騒動を受けて、私が「教育での公平性」や「大学に行く意味」について考えたことを書きたいと思う。

騒動の概要

まず、何が起こったのかを書いておく。

このクラスでは、どうやら中間試験が毎年使いまわしのようで、

推定によるとクラスの3割くらいの学生が、過去の試験問題とその解答を、お金を払うなどして入手したらしい。

アメリカの大学ではよくあることだが、試験当日はチートシート(A4一枚分、自由に書いて良い)の持ち込みが許されており、

多くの学生が、過去の試験の解答を写した、ということになる。

チートシートは、試験終了後に回収されなかった。

一学生として、私が試験当日に違和感を覚えたのは、90分の試験時間の半分くらいで教室を後にする人々が一定数いたことだった。

自分はそこそこ物理ができる部類に入ると思っているが、45分経過時点では7割回答したくらいで、「この試験、結構難しいな」と思い焦っていた。

さらに、試験が返却された際、平均点が80点であると発表され、

自分が感じた難易度や、過去の平均点と比べて、「そんなに高いの!?」と驚いたのを覚えている。

教授の対応

返却2日後の週例小テストで、チートシートの抜き打ちチェックが行われた。

週例テストも毎年使いまわしなので、週例テストでもカンニングをしていた人は、ここで見つかったようだ。

さらに数日して、教授が、中間試験で大規模な不正行為があった、と発表した。

その時の教授は、「不正行為があったのを悲しく思う」と、悲しみを前面に出しており、

「カンニングをしている人の答案というのは、見れば分かる。最低でも隠せ。」

などと言っていた。

ここまで大規模な不正行為は教授にとっても初のようで、これ以来正式なアナウンスメントは出ていない。

どうして不正行為が起こってしまったのかー私の意見

なぜ、大規模な不正行為が起こってしまったのか、私の考察を書いていきたいと思う。

まず、「試験問題を毎年使いまわしているのが悪い」という見方に対して、

確かに、毎年問題が変わっていれば、ここまで大規模かつ「完璧」なカンニングは起こらなかったかもしれない。

しかし、学部生が扱える程度の流体力学の問題はそれほど多くないのではないか、と私は思っている。

だから、仮に完全な使いまわしをしなかったとしても、問題はきっと非常に類似したものになるだろう。

研究活動が主であるタイプの教授が、毎年問題を変えるか、という問題もある。

わたしが思う根本的な原因は、「これまでのカリキュラムの簡単すぎる試験」にあると思う。

私が大学に入学して驚いたのは、テストが「簡単」だということである。

ちゃんと勉強すればほぼ満点を狙えるテストが多かった。

私が考えるに、「簡単」なテストの問題点は、

深い理解を示した回答に与えられる「褒美」よりも、ケアレスミスを犯すことに対する「罰」の方が、大きくなることだと思う。

つまり、学生は「完璧を目指さなくては」「ミスをしてはいけない」とびくびくしながら受験することになり、

「よーし、いっぱい考えて面白い回答書いたろ!」という発想は消え失せる。

今回の流体力学の中間試験は、「学生にしっかり考えて解答してほしいタイプ」の試験だったにも関わらず、

今までの学生生活から、テストで点を失うことに慣れていない学生は、悪い点を取る恐怖から、過去の試験を丸写しするという行為に出てしまったのだと思う。

考えてみると、「半分くらい得点できれば受かる日本の大学の2次試験」のようなものを、

アメリカの高校生は経験する機会がない(彼らはSATという「簡単」な統一テストと学校の成績を願書に書く)。

他のクラスとの兼ね合いもあり、「時間はないけど点数を落とすのは怖い」という空気が、この騒動を起こしたのではないか、と私は考えている。

公平性はどう守る?成績は何を意味する?

今となっては、過去の試験問題はネットで簡単に手に入るし、

物理のように答えが一つしかないタイプの問題は、ネットの掲示板で聞けばほぼ正しい答えが返ってくる。

たとえ教授が4年ごとに問題をリサイクルしたとして、4年前の問題はネットに眠っている。

もし自分が教授の立場だとして、こんな状況でどうやってカンニングを防止できようというのか!!

一番たちが悪いのは、「お金を出せば問題と解答が買える」というシステムが存在することだと思う。

でもこの問題を掘り下げていくと、「参考書をたくさん買うお金のある人が大学入試で有利」といったもっと大きなレベルでの教育格差に関する議論になってくる。

正直、今のところ、「毎年新しい問題を考える」「試験問題を返却しない(自分の答案を確認したい場合には教授のオフィスに行く)」といった対策を積み重ねて、

チーティングの「完璧度」や規模を小さくしていくしかないのでは、と思う。

さらに今回の件で、大学の成績の意味についても考えさせられた。

日々、もっと小規模なチーティングが起こっているとして、他の学生との比較で与えられる成績、というのは、何を意味するというのか。

ほとんどのクラスで絶対評価を取り入れている理由は、チーティングをしていない学生が不利にならないようにするため、なのだろう。

しかし裏を返せば、チーティングを完全犯罪としてやり遂げた学生は、いい成績がもらえる、ということでもある。

そうなると、「いい成績」というものの価値が下がることになりえないか?

アメリカの大学は特に、letter grade (A,B,…F) が重視されすぎているような気がして、

いかに効率的に成績を取るか、という議論にいそしむ学生も多く目にする。

大切なのは、成績表に表示される一文字のアルファベットではなく、そのクラスから自分が何を学んだかである、

という考え方ができるような、そんなシステムが社会全体で出来たらいい、と思う。


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