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真っ黒な投稿をシェアする前に
アメリカで黒人の方が白人の警察官に殺された事件を発端に
人種差別に反対するムーブメントが激しくうごめいている。
SNSは真っ黒に染まり、
黒人の文化がどれだけ素晴らしいかがシェアされている。
こうやって人種差別に対してそれぞれが自分の意見をSNSを通してシェアできる時代になったことはとても素敵なことだと思うけど、
そうやってSNSでシェアすることがファッションになっていないか、シェアすることがゴールになっていないかとふと思うこともあるし、何も差別問題は黒人対白人だけの問題ではない。
私は沖縄で生まれ沖縄で育ち、今大阪で働いている。
事あるごとに上司や同期から何回もこの言葉を投げられる。
「これだから沖縄は」
指導の際に上司が使うこともあるし、会話の中で冗談で使われることもある。冗談で言っているんだと分かっていても不快な時もあるし、仕事をミスして怒られた際この言葉を使われるとしんどい。
「ミスは私の責任なのになぜ沖縄を馬鹿にされなければならないのか」
何度も何度もこの気持ちが胸を覆い隠してやりきれなさで破裂する。
南の楽園というイメージの裏側でどこか見下されているのを痛感した。
でも何も、本土の人だけが悪いと言っているわけではない。
沖縄の人は本土の人のことをナイチャーと呼ぶ。
いちゃりばちょーでー(出会えばみな兄弟)という言葉をパブリックにしているが実際沖縄ではこのナイチャーに当たりが強い。
勿論ナイチャーと友達にもなるし、知っての通り沖縄の人は明るくフレンドリーで誰にでも親切だ。
けど何かあるごとにウチナーンチュ(沖縄の人)とナイチャー(本土の人)を区別し、自分のコミュニティーに深入りさせたがらないし、心のどこかで冷ややかな感情を持っている。沖縄に移住してきた方が移住前のイメージとは違って、住んでみるとコミュニティーに入りづらく、居心地が悪いというのはよく聞く話である。
こうやって考えると結局みんな自分を生きていくことに必死なんだと思う。
黒人と白人、ウチナーンチュとナイチャー、
お互いに境界線を引いて、違いを協調させて、
時には他人を卑下することで自分を優位にする。
他人を傷つけることで自分を守り、保ち、可愛がることに必死なんだ。
そんなものだと思うんだ。
だから「人種差別反対」「世界は一つ」「みんな同じ人間」
こんな言葉を最近よく目にするけれど正直私は綺麗ごとに見える。
平等で同じで一つなんて世界で人は生きていけるのだろうか。
私はそうは思わない。
人は他人と境界線を引いて自分を保っているから。
だから私は自分自身にこう唱えたい。
「誰もが差別の加害者であり、他人を傷つけて自分を保っている」
私は平等やみんな同じなんて言葉は使いたくない。
善人ぶらないで自分が持つ影を素直に認めたい。
そうやって他人と共存していきたい。
その意識を持つだけで少し自分にも他人にも優しくなれる気がする。
「人種差別反対」「平等な社会」なんて大きな言葉を目指す前に、自分の中に小さな優しい気持ちを育んでいきたい。
その大きな言葉の根幹には絶対その優しさがあると私は思うから。
真っ黒な投稿をシェアする前に一度自分に問いかけて欲しい。
「私は差別の加害者でないか、他人を傷つけて自分を保っていないか。」
そして小さな優しさを今日誰かにシェアしたか。