女性という性についてのこと
※記事中における“男女“という言葉は、主に子を宿すか宿さないかというような身体的特徴を指すために使っています。
最近よく性に関する記事や番組などを見かける。
どれもLGBTQ+に関してや性ごとの役割という慣習に疑問を呈し、多様な性のあり方に寄り添うものが多い。現代ではそこまで女性であるから生きづらいと感じる社会ではなくなっているように思っていた。そして、私自身、ジェンダーの問題をそれなりに考えてきたと思っていた。
ただ、妊娠出産を経験してから、女性という性についての考え方が変わったので、ここに少し書き残しておこうと思う。
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大学院まで性別関係なく経験を積み、みんな同じように労働し、お金を稼ぎ、同じように作品制作をしてきたはずだった。 男性に対して筋肉の差を感じたり、女性ゆえにできる労働をしたことはあるけれど、生きる上で、経験を積む上で、男の方が恵まれているとか、女の方が、というような性差のことをこの日本社会の中で考えたことはほとんどなかった。
4年前、夫婦揃って不妊症とわかり、いざ不妊治療が始まると、状況は一変した。 女性側の負担がえぐい。女性は子供を育てる器官を体の中に持っている。そのことを再認識した。
男性側は妊娠出産に関して、できることが少ない。 体内に育てる器官を持っていないのだから仕方がない。しかし、その器官を持っているがゆえに女性は会社を休まなければならなかったり、仕事を辞める選択をすることがある。
今の私を1番苦しめるのは、以前自分自身が持っていた妊娠出産育児に対する考え方である。
子供を授かって、結果として時間がなくなり、自分の時間が取れなくなったとしても、それは子を育てるというのはそれだけ大変で、頼る親族などがいなければ時間が取れなくなるのは仕方がない。子供を育てると決めた人間が負うべき負担であると考えていた。
この考え方は、前出の性差を感じずに生きてきた自分の感覚とかなり差があるということに、最近やっと気づいた。
"女はいいよな、結婚すればいいから。"
ごくたまに存在するクソ野郎から女性に向けて発せられる言葉だけど、"いや、私は別に働くし。"と思ってきたし、子供を産んだあとも"育てながら働くし。"と思っていた。
しかし、その返答は、性別関係なく育ってきたせいで根付いた、どちらかというととても男性的な思考だった。
社会の中で経済的に賃金を得ることだけが労働ではない。子供を産んでからずっと感じてきた社会的無能さ。以前のように自分で自分の人生の波に乗れている感じがしないというか。
冷静になれば、社会の中で何も生み出していないと感じる期間を、恥じる必要はないはずだ。
くそやろうからの暴言に対して返すべきは、自分も賃金労働ができると主張することではなく、育児と家事を担うことを賃金労働をする事と同等に考えろということだった。
実際に育児をして感じる困難さは、賃金労働で感じる困難さとは全く違う種類のものだ。一人なら三十分でおわる庭の草刈りが半日かかった。5分で終わらせられる食事も、食べる練習をしながらの食事だと三十分かかる。もちろんサボることもできるし、お腹がすいたり泣いてもほっておけば時間は作れるが、相手はものじゃなくて人間、そんなことはできない。生活のすべてのマネジメントを任されている。
先日とてもいい話を伺った。
女性は男性と同じようなリズムで生きる必要はない。同じキャリアを積むにしても、他の人が右肩上がりにゆっくりと経験を積む間、子を持つ女性はジェットコースターのようにアップダウンがある(休んだり復帰したりを繰り返す)ことが、より当たり前の社会になればいい。子供はキャリアを邪魔する存在ではないし、むしろ自分では作れない人間関係をもたらし、必ず助けてくれる、という。
男女が同じように右肩上がりに経験を積むことが平等な訳ではない。子供を育てる器官は身体的に女性側にあり、交通事故並みの負傷をおうのも女性側なのだ。男性と同じように育った女性はハナからそれをちゃんと理解できているわけではない。それを考えると、産後復帰が早くできるというのは一概に良い話ではないのかもしれない。
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