【香の日本史❷】 -番外編5/7- 中央集権国家の名コンビ?律令と仏教[国家仏教・中編]
ここまで、国家仏教における、(4)経典の製作・頒布という仏教思想の普及、について解説した。
次は(3)仏数の担い手たる僧尼の生産と統制、について見ていこう。
◾️天皇による僧尼の統制
大化の改新(645年)により即位した孝徳天皇が、十師(僧尼を教導する役割)を任命して以降、僧尼生産の権限は、天皇が独占していた[※1]。
政治的意図に基づいて普及した経典を講説・読誦する担い手を、天皇の権限で生産する以上、その統制が必要になる[※1]。
683年に軽備された「僧綱制」は、僧尼の身分秩序を定めた、僧尼統制の出発点であった[※1]。
以降、天皇が代変わりしても、国家仏教である限り、僧尼集団を統制する律令が制定されてゆく[※1]。
683年 【天武】僧綱制の軽備
696年 【持統】浄行者10名の年分度者を規定
701年 【文武】僧尼令を制定(大宝律令)
718年 【元正】僧尼の学業・修行の奨励、僧尼公験の設定
734年 【聖武】度者資格の規定
◾️浄行者という概念
さて、少し話が逸れるが、僧尼集団の統制を補足する説明をしたい。
持統天皇の御代から現出した「浄行者」という概念がある。
・(本来)仏教の清浄観に基づく僧尼の活動(戒律遵守、山林修行)を意味
・(実際)僧尼に備わった「徳=清浄性」が、国家の清浄性を維持する手段
として認識されたようだ[※2]。
必ずしも仏教教義に即した概念ではなく、古来より日本社会に存在した、伝統的な清浄感(「穢れ」の概念)に基づくものと推測される[※2]。
天皇・宮廷の所在する都に、寺院・僧尼を集中させることで、他地域よりも清浄である、即ち王権の清浄性につながると観念されたようだ[※2]。
そのため、僧尼は清浄性が得度の第一条件として評価され、またその維持が期待された[※2]。
持統天皇の次代・文武天皇から孝謙天皇までの正史を記した『続日本紀』という歴史書がある。
その『続日本紀』でも、「浄行僧」という表現が頻出することから、奈良時代を通して朝廷が清浄感を重視していた意思が表れているのだろう[※3]。
まとめると、僧尼集団を統制する律令が制定された背景は、
・天皇の正当性を補助的に説明する経典を誦読し
・宮廷の清浄性を維持する要員としての
僧尼の品質管理が目的だった[※2]。
宮廷が僧尼の学業・修行の奨励した意義も、品質管理の強化であり[※2]、「実践的機能」に対する期待の現れと言えるだろう。
注釈
※1 本郷 真紹『律令国家仏教の研究』p276,法蔵館,2005年
→日本古典文学大系『日本書紀 下』頭注,岩波書店,1965年
※2 本郷 真紹『律令国家仏教の研究』p34,法蔵館,2005年
→速水侑『日本仏教史 古代』吉川弘文館,1986年
※3 本郷 真紹『律令国家仏教の研究』p35,法蔵館,2005年