『インサイド・ヘッド2』を観てみたワケだけれど。
(蛙๑╹ω╹๑ )<観てきたんじゃ。
声優の花澤香菜さん、ざーさんがショートで流れてきたもんで。
あとから調べたら小清水亜美さんや坂本真綾さんも出演されてたりして。
とまあ、アニオタらしい理由で『1』を観ていないのに『2』を観て来たワケです。
結果的に
(蛙๑╹ω╹๑ )<あまり響かなかった。
日本のアニメーションより遥かに美麗で繊細な3DCGアニメーションは、「さすがピクサー、さすがDisney、さすがアメリカアニメーション」と唸ったのだけれど、ストーリーには訴えるものを感じられなかった。
思春期に突入した少女が初めて向き合う友人との進路の別れという現実的問題。
不安と嫉妬と憧憬と焦り。
「あるある!」
と思わず目を伏せたくなる、自らも一度は体験した事のある瞬間の連続。
自己投影したり、共感性羞恥を喚起させられたり、同族嫌悪の感情を抱いたり。
劇中で描かれる少女の「多感な時期のよくある青春の1ページ」が、観る側にも思い当たる事ばかりで共感したり惹き込まれた人もいるんじゃないかと思う。
共感を強く抱いた人には、親友との感情の亀裂に妬み嫉みを抱き道を分かれ、それでも最後には周りと理解し合い次のステップに進む事が出来た少女の成長が、感動し涙を流すに値する物語として映っただろう。
なんて、こんな短い「解ったようなまとめ」には表せない複雑な「思春期」の感情が描かれていた。
それは間違いがなくて、そんなストーリーを評価する人もいると思うのだけれど。
(蛙๑╹ω╹๑ )<カエルとしては、『シンパイ』を感情を支配する悪感情の様に描き、最後には『ヨロコビ』をライリー自身が求めているような『勧善懲悪』めいた描写で描いた事が、どうにも気に入らなかった。
要はキャラクターの描き方の好みが合わなかった。
事実、シンパイをはじめとする新しい感情たち(シンパイ・イイナー・ダリィ・ハズカシ)は、古くからいる感情(ヨロコビ・カナシミ・イカリ・ビビリ・ムカムカ)を蔑ろにして追いやった。
そして『喜び』という感情は人が生きるために必要な『強く求められる感情』であり『心配』や『不安』という感情は悪感情として一般的に嫌悪されているのもまた事実である。
だからキャラクターたちの言動は描かれるべくして描かれたと言うべきかもしれない。
でも、
(蛙๑╹ω╹๑ )<クライマックスの、ヨロコビが光に導かれるシーンで、シンパイがその道を譲るような仕草(手のひらを広げて行く先を譲る)
を取ったのは、「必要なのは私(悪感情)じゃなくてあなた(好感情)」みたいなニュアンスに感じてなんかヤだ!
って思った。
受け取り方次第な所あるし、製作陣はそんなふうに描いてないのかもしれないけれど、シンパイは劇中、ライリーをめちゃくちゃに感情で弄っているので、どう取り繕った所で『悪』として描いているし、そんなライリーをこれまでの優しかったライリーに戻そうとするヨロコビたちは『正義』として観客の目に映る。
つまり『勧善懲悪』としてヨロコビとシンパイを対立させているのは客観的事実だ。
(蛙๑╹ω╹๑ )<という、ここまでの演出が、
「アメリカ的でなんかすごくヤだ」
というカエルの結論である。
カエルは基本的に正義のごり押しが好みではないのだ。
これが『キャプテン・アメリカ』のようなアメコミヒーローならいい。
強い者・正義の象徴として描かれるなら納得も出来るが、『感情』という曖昧で、立場と環境で善にも悪にも転ぶものに倫理的価値観を押し付けるような描き方が気に食わなかった。
(蛙๑╹ω╹๑ )<映像とか声優の演技とか物語の流れは良いけど、キャラクターの扱い方が好きじゃない。
という感じ。
まあ、シンパイは最初から「私こそが正しくライリーを導ける!」ってスタンスだったから、いずれ訪れる失敗も失墜もヨロコビの復権も、なるべくしてなったって話なのだけれど。
と、ここまで「観るきっかけ」になった『イイナー』の話を全くして来なかったけれど、
(蛙๑╹ω╹๑ )<このショートに映るイイナー(ざーさん)がほぼ全てです笑
『ダリィ』の坂本真綾さんはもっとセリフが少なく、名前を見て「真綾さんだったんか……」となる演技だったので、逆に見応えはあった。
ライリーの問題と、感情たちの問題、二つの世界で起承転結を描く必要があるので脇役のセリフは必要最低限の必要なセリフにまとまっちゃうのは仕方ないけれど、もっと新しいキャラクターに出番を増やしてほしかったと思った。
そんな感想を抱いた『インサイド・ヘッド2』
大ヒットしてるらしいので、やっぱカエルはちょっとメインストリームからズレてんだなー、と思う事になったんですが、そんな自分のひねた価値観もカエルは好きなので、色んな感情を喚起させてくれた本作にも感謝です。
(蛙๑╹ω╹๑ )<気になる人は観に行ってみてね。