『私と過ごした1000人の殺人者たち』
金原龍一『私と過ごした1000人の殺人者たち』を読んでいます。
強盗殺人事件を起こし、31年間服役した後、2008年に仮釈放された元無期懲役囚の方の本です。「右も左も殺人犯」という中での31年間。そこで著者が出会った囚人たちの言動や振る舞い、著者の思考などが記述されています。
還暦をすぎての出所後は、調理師の資格をいかして、とある施設の厨房の裏方の仕事をしているそうです。
著者の文体や、他の囚人たちへの観察が非常にしっかりしており、「なぜ、この人が殺人を?」と不思議に思うことが多々ありました。「魔がさした」と言えばそれまでなのですが。著者も、それ以外の囚人たちも、知っていくにつれて「この人は自分と大して変わらない」と考えさせられました。
31年間の刑務所生活の中で、著者は「書く」ことにこだわりを持っていたよう。刑務所内の短歌クラブに参加したり、文芸作品をコンクールに投稿したりしていたそうです。
私は、短歌クラブの活動を自分の義務のように感じていた。変化の少ない懲役生活では、ともすれば贖罪の気持ちを失いがちである。いや、その気持ちを消さないようにする何らかの努力をしなければ、自分の起こした事件のことなど、必ず忘れると断言してもいい。
誰が見てくれるわけでもない自分の歌ではあるが、自分の心の内面を形にし、それを自分自身で確認するだけでも受刑生活に大きな違いが出てくる。 (p.168~169)
たとえ下手であろうとも、自分自身のことを書いていく行為によって、人間は自分自身を見つめ、客観的な視点を持つ力が鍛えられてくるのである。
自分の考えや意見を、人はどのように受け止めるだろうか。
実は、大きな犯罪を犯してしまう人が一番苦手とするのが、こうした「物事を客観視する」思考なのである。 (p.212)
著者の結論は、「大きな犯罪を犯す人は、自分や物事を客観視する能力がない」ということ。著者は、「書く」という行為を通じて、意識的に自分を客観視していたようです。
世の中の大半の人は、刑務所に入らないといけないような罪を犯すことなく人生を終えます。(たぶん)自分も。
でも、仕事や家族、学校といった場で日々を過ごす中で、良いことも悪いことも、いろいろ感じたり、考えたりすることはあると思います。
そんな時に、「書く」という行為を通じて、自分を客観視する時間をとることは、囚人でなくても必要だなと思いました。noteで発信するもよし、自分のメモ帳に書くもよし。
ちなみにこの本では、名だたる事件の当事者たちが数多く登場します。
たとえば、刑務所内でのソフトボール大会について、こんな話が出てきます。
私が見る限り、ソフトボールが意外にうまかったのは「狭山事件」の石川さんと「あさま山荘事件」のキャッチャー吉野で、金属バット事件の一柳などは、若いくせに、スイングがなってなかった。やはりあの事件のトラウマがあったのだろうか。 (p.172)
著者の目を通じて彼らについて知ることはとてもおもしろいです(彼らが犯した犯罪はおもしろくないですが)。
読み物として非常に面白いので、よければ、ぜひ。