巡るめく青春
去年、あるラジオ番組で「猛暑」というお題で自由律俳句が募集されていた。見よう見真似で20句くらい作ったけれど放送で読まれることはなかった。それ以来、僕は短い言葉で自分を表現するのが苦手なのだと確信した。確かに普段から僕の話は長い。どうでもいいことばかり話している。
理想的な入道雲を見つける
これは(落選した20句の中では)自分でもお気に入りだった。自分の中での入道雲の理想像が先にあって、その姿を探している自分、夏を感じようとしている自分を言葉にしてみた。本当は入道雲が先にあって、それを見て夏を感じるはずが、順番が逆になっている。夏の中にいると言うより、夏を探している気がしていた。
欅坂46の『危なっかしい計画』は奇跡のような夏の曲だと思っている。特に、そのCメロの歌詞に心惹かれる。
いつかはどこかで気づくはず
素敵な彼でも無かったって
真夏の関係は秋風が吹くまで持たないもの
恋が一瞬で失われてしまうことを知りながらも、今を楽しもうとしている女子高生の姿がありありと眼に浮かぶ。(歌詞について書いているだけなのに犯罪めいた文章になってしまう)
この歌詞を聞くと、違和感がある。「いつかはどこかで気づくはず」と思っている時点でそれは恋じゃない気がする。少なくとも、既に盲目的なものではなくなっている。じゃあなぜ無理に恋をするのかと言うと、やっぱり、夏だから、ということになるのだろうか。
この女の子は、どこか、「恋している」というより、「恋しようとしている」感じがする。「楽しんでいる」と言うよりも「楽しもうとしている」。そんな姿が、僕の中の夏の景色に重なった。夏の中にいると言うより、夏の姿を探している。入道雲を探している。
自分の高校時代を振り返ると、やっぱり、夏を、というか、青春を探していた気がする。でも同時に、「探していないふり」もしていた。青春は探してはいけない。それが青春であるために。見つけようとした時点で青春に求める何かが失われてしまう気がする。青春の姿を先に決めてしまってはいけない。無我夢中で生きていて、後から考えると「青春だったなぁ」という結論に至るようなものでなければいけない。従って、今「青春をしている」という意識や「青春をしようとする」ことは決してあってはならない。
こんなしょうもないことを考えていたが、よくよく考えてみると「青春」のあるべき姿を「青春を探すようなものであってはいけない」という条件で決めてしまっているようにも思える。もう自分が何を考えているのかも分からなくなってきたけれど、スタート地点から一歩も進んでいない感覚だけがある。
青春も、夏も、探す余地も無く存在して欲しいのはわかる。でも、今になって振り返ると、高校生なんて結局、青春を探すものだと思う。もしかすると、青春を探すということも含めて青春なのかもしれない。そして青春を探すという青春をまた探すのかもしれない。またスタート地点に戻ってしまう。巡るめく青春。
もう大学を卒業したけれど、夏になるといまだに青春についてそんなことを考えてしまう。夏と青春は切っても切れない関係にあるのだろう。
高校生の時に考えていたあれやこれやを思い出すと、本当につまらないことばかり考えている。そんなつまらないことは、考えすぎるほど大事だったのだろうか。そんなにたくさん、大事なものが身の回りにあったのだろうか。
もしかしたら、青春の定義は、「探してはいけない」とかそういう理屈っぽいものではなくて、身の回りに、どうしようもなく大切なのに、時間によって失われてしまうものが溢れていることなのかもしれない。どうしたって考えすぎるもので溢れている世界なのかもしれない。そう言う意味では、彼女もいなかったし、野球しかしていなかった気がするけど、僕は間違いなく青春していた気がする。しょうもないことを大量に考えていた点においては、かなり自信がある。
母親からラインが来た。
「あんたの体操服どこ?〇〇(弟の名前)が探してるねんけど!」
そんなん知らんわ、と思った。どうやら高3の弟が僕の体操服を使おうとしているらしい。弟は僕の母校に通っているから体操服は同じなのだ。なぜそんなことでラインしてきたのかわからなかった。よくよく聞くと、弟は、明日の体育のサッカーをどうしてもやりたがっているという。こいつもなかなかいい青春をしていると思った。どうしてもサッカーをやりたいのが青春なのだ。大学受験前日、もうええわ、と思ってやったサッカーがめちゃくちゃ楽しかったことを思い出した。翌日の受験はちゃんと不合格だった。
青春の定義は無数にあるのだ。