令和6年のブックシェルフ 2〜itから千一夜まで〜

4月

 最も頭がわーっとなっていた時期である。文章を読むような余裕がなく、読んでいる本の数は少ないし、ほとんどが再読となる。

『it』スティーブン・キング
 正直に言うと、スティーブン・キングがあんまり分からない。中編も長編も、訳者が変わっても、なかなか手強い。どうにも文章が一度読んだだけでは頭に入ってこない。それでもなんとか話についていき、4巻を読み通した自分はよっぽどケチなのだろう。あるいは頭がわーっとなっていて、面白さがわかっていないことにも気づいていなかったのかも知れない。東京の現実から逃れられればなんでもよかったのかも知れない。

『成瀬は天下を取りにいく』
 今年のスーパー面白小説である。その面白さについて、主人公に承認欲求がないからとかごちゃごちゃ言われているけれど、正直そういうレベルではない。承認欲求のない主人公の面白くない小説は五万冊くらいある。髪が本当に1ヶ月で1センチ伸びるか調べるために丸坊主にしちゃう女の子の話が、承認欲求の一言で片付けられていいのだろうか?
 物語の舞台となった膳所には若干馴染みがある。郊外の何にもないけど何でもある街の典型だ。成瀬はそんな街のスーパースターだから気持ちいい。東京だったら潰れてしまうかもな、なんてことを東京で考えていた。

『13歳のシーズン』あさのあつこ
 この年代を書いてあさのあつこに間違いがあるはずがない。

『海辺のカフカ』村上春樹
 再読。

『ハリネズミは空を見上げる』あさのあつこ
 再読。

『恋文の技術』森見登美彦
 再読。混乱が深まる。この辺りは大好きな作家3人以外の本が読める気がしなかった。

5月

『オネスティ』石田衣良
 肉体関係を持たない約束をしている男女の恋愛小説。僕の中の石田衣良のイメージは、何でも簡単にやっちゃうセンスがある人。クラスの輪の外側にいて、普段はそんなに喋らないけど、たまにボソッと一言言って笑わせるやつ、みたいな印象である。ただ、そのせいで、面白すぎて、面白くない、という不思議なことが起こる。読んでいると、もうちょっと困ってほしい、という意味の分からないことを思う。
 でもこの小説にはそういう要領の良さ以上のものがある。きちんと生きようとしている人間の不器用な様子が好きである。

『ペンギンハイウェイ』森見登美彦
 もちろん再読である。一時的に東京から逃げ出し、帰省して関西で読んだ。
 森見系謎作品群の一つ。細かい説明は避けるが、主人公の少年が想いを寄せるお姉さんは最後にはいなくなってしまう。いなくなってしまったお姉さんへの思いを少年が語る最後の部分がすこぶる良い。
 いなくなってしまった人に、少年はあくまで少年である。
 そうだと思う。そうありたいと思う。
 1日で読み切る。

『ペンギンハイウェイ』森見登美彦
 混乱が極まる。2日連続で同じ本を読む。名前がついていないだけで何かの病気である。

『アーサー王の死 中世文学集1』トマス・マロリー
 アーサー王や円卓の騎士をまとめた物語。そんな古い話が本当に面白いのかと聞かれると、多分面白くはない。というかよく分からない。話の内容の記憶はほとんどない。この時はもう面白いとか面白くないとかではなかった。とにかく東京から空間的にも時間的にも離れた物語を読み、目の前のことから逃げ出したかったのだと今になって分かる。

『夜行』森見登美彦
 再読。謎は美しい女性の形をとって現れる。森見系謎作品群なんてふざけたことを言っているが、どう言うふうに面白がればいいのかを一つ持っているだけで、本というのは随分読みやすくなる。
 森見登美彦、村上春樹、あさのあつこという作家を並べてみると、3人とも現代という時代を直接的に書く作家ではないということが分かる。今の日本の問題点を小説の中で鋭く描くことはほとんどない(ように僕には見える)。そういうことは置いておいて、面白い話を届けてくれるように思う。そこには物語に対する信頼を感じる。「面白い物語はよきものである」という頼もしさを感じる。

6月


 頭がわーっとなっている状況を終え、全てが面倒くさくなってくる。全てが面倒くさくなった時だからこそ読める本というものがある。

『カジマヤー』池上永一
 沖縄の潮風と太陽をいっぱいに吸い込んだ三線ファンタジー小説。
 物語への信頼感という基準においてはこちらも引けを取らない。
 混乱が極まっていた時期ではあるが、ギリギリのところでその時読むべき本を選べていたことは幸運なことであった。

『千一夜物語』マリュドリュス編(岩波)
 言わずと知れた超大長編アホアホ砂漠海物語である。美女と魔神と王様と金貨がアッラーの名の下に舞い踊る。
 千一夜物語を語る上で入れ子構造を避けることはできない。入れ子構造というのは、マトリョーシカのように物語の中に物語があり、その物語の中にまた別の物語があるお話である。ただマトリョーシカみたいなちゃんとした人形とは異なり、千一夜物語では外側の物語よりも中にある物語の方が大きいことがある。味気ない物理世界ではありえないことも、物語の世界では何も問題ない。物語の箱を開けると、より大きな箱が出てくる。その箱を開けると、また大きな箱が出てくる。箱を開けるたびに物語は大きくなっていく。そんな不思議が15世紀のバグダッドでは普通のことだったようだ。読者は間違いなく自分が今どの箱を開けているのか分からなくなる。正直そんなことはどうでも良くなる。しだいに物語が面白いかもどうでも良くなる。じゃあどうして読んでいるのか。そこに物語があるからとしか言いようがない。
 数学が得意でしょうもない人間である僕は、実際的な方法でその長さを説明する。岩波文庫だと約450ページ✖️13巻になる。仮に1分で1ページを読んだとしても、1日7時間休まずフルタイムで労働基準法に違反して読んで二週間かかる。僕は二週間で読んだ。頭がどうかしていたのだろう。そしてより頭がどうかしていたことに、千一夜物語を読んでいる間、僕の世界はずっと夜だった。これは比喩とか象徴とかメタファーではない。現実にずっと夜の間読んでいた。その頃、僕は太陽の光が辛いという奇病を患っていた。太陽の光は健常者のものだと思っていた。これは象徴かもしれない。とにかく、健常者の世界が現実的に辛かった。
 象徴的に健常者の世界が辛くなった僕は、現実的に太陽の光を避けることにした。まず部屋の窓を段ボールで塞いだ。これで家の中では太陽の光を浴びないで済む。昼の時間は起きないことにした。夕方4時ごろ起きて、朝八時ごろ眠った。夕方に起きて朝ごはんを食べ、千一夜物語を読む。真夜中ごろ昼ごはんを食べてまた読む。朝六時ごろ晩御飯を食べて寝る。不眠症であるにもかかわらず、この生活をしている間は時間通りに眠れていた。不思議なものである。規則正しく不健全な生活をしていた。
 そもそも千一夜物語は、大臣の娘シャハラザードが人間不信の王様に夜通し語った物語である。そのことを考えると、昼起きることをやめた僕が真夜中、部屋にこもって読んでいたのは、必然性があるようなないような不思議な類似である。
 この奇妙な生活は千一夜物語を読み終えた後もしばらく続くことになる。

『熱帯』森見登美彦
 森見系謎作品群の最高傑作である。森見作品はミステリーではない。ゆえに謎は解かれない。謎の輪郭に触れることはできる。でも謎を制圧することはできない。謎は最後まで謎のまま魅力を放ち続ける。我々は謎の魅力に囚われていく。そんな小説だ。何の説明にもなっていない。
 この作品で大きな役割を果たすのが千一夜物語である。実を言うと、熱帯の魅力を十分に味わうために千一夜物語を読んだ部分もある。千一夜物語という物語の不思議な魅力なしで熱帯は語れない。物語自体の魅力によって、この物語は成り立っている。
 森見登美彦の作品からは、物語という存在自体への信仰と畏怖さえ感じる。その点、あさのあつこや村上春樹よりもさらに強い物語への信頼感があるといってもいい(こんな異種格闘技で比べられても困るだろうけど)。村上春樹やあさのあつこは、あくまで物語を手段としているのに対して、森見登美彦は物語自体が目的になっている。そういう意味で、森見登美彦は「物語自体作家」である。はあ?

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