箱根駅伝というスタンドバイミー

 毎年箱根駅伝のゴールの瞬間を見ている気がする。普段はテレビなんかほとんど見なくなった。それなのに、今年も10区の選手がゴールテープに飛び込む瞬間、テレビの前で呑気に涙を流していた。
 陸上経験者ではないし、陸上好きとさえ言えない。だから「箱根駅伝は絶対見る」というほどの意識はない。いつも、正月なんだからちょっとくらい見ておくか、という程度の意識で見始める。それでも、最後のシーンは必ず見ているのだか不思議なものである。その時点では今年の出雲とかなんとかの結果も知らない。アナウンサーの解説で今年の力関係を何となく頭に入れる。細切れの情報を聞いて「今年は駒沢か~」なんて適当なことを言って見始める。ゴールを見届けよう、などという強い意志は全くない。選手には非常に失礼なのだが、この時はまだ、箱根駅伝は正月らしい雰囲気を出す装置の一つでしかない。お雑煮、初詣、テレビをつければ駅伝。正月のリズムを確かめるために箱根駅伝を見始める。
 そもそも、箱根駅伝は途方もなく長い。今年の青学は総合記録を塗り替えたらしいけれど、それでも11時間弱。11時間。それだけ長い時間一つのスポーツを、しかもただ人間が走っているだけのスポーツを見るイメージなんて普段の生活からするとなかなか沸いてこない。11時間あればいろんなことができる。スタンドバイミーを6回見れる。薄い本なら二冊読める。その間、せっかくの正月をテレビの前で消費するなんてちょっと考えられない。

 語弊を恐れずに言うが、箱根駅伝は往路の方が面白い。いや、もちろん復路は復路で面白いのだが、後半はどうしてもランナー同士の距離が離れてしまって見どころが少ない。一方、往路は抜いたり抜かれたりレースの動きが多くて、盛り上がりどころが分かりやすい。そのうえ、各大学のエースが揃う『花の二区』がある。スピードが出やすくてしかも長いコース(堂場瞬一の駅伝小説『チーム』の受け売りである)で、団子状態のエースたちが抜きつ抜かれつのレースを展開する。ちょっとくらい見ておくか、なんて言っていても、ここではいつも手に汗を握っている。トイレにも行けない。
 その後、3区、4区でテレビ画面の景色は大きく変わる。ランナーたちは街を出て海沿いを走る。のどかな海の風景がおめでたい空気を演出するからテレビをつけておく。でも、そこにあるのは穏やかな正月の雰囲気だけじゃない。胸の中に、小学校の夏休みのような気持ちの昂りを感じる。コンクリートの日常を飛び出して、色鮮やかなの非日常を目指すワクワクとドキドキ。大学生たちのスタンドバイミー。
 箱根駅伝の面白さは、箱根にある。何を当たり前のことを言っているのかと思われるかもしれない。でも、これは間違いない。箱根じゃなければ、箱根駅伝じゃない。言えば言うほどアホみたいになっていくので話を進める。
 箱根不要論というのがあるらしい(堂場瞬一の『チーム』情報)。その理由は5区の存在にあるという。傾斜が急で体に負担の大きい5区を大学生に走らせるのは、ランナー育成の点で不適切だというのだ。その如何については分からないが、論点を駅伝の面白さに限れば、5区は間違いなく必要である。と言うことで僕は5区も見る。箱根を見るなら、さすがにここを見逃す選択肢は日本人には存在しない。
 僕が箱根駅伝を見る時、頭の中には常に5区の存在がちらついている。何と言っても5区が『箱根』なのだ。箱根駅伝は箱根駅伝であって大手町駅伝ではない。ランナーが東京を走っても、湘南を走っても、箱根駅伝である。僕たちは箱根を意識することを常に義務付けられている。ランナーは都市から海沿いを抜け、最終的に箱根の山を目指す。そこには登っては行けないと伝わる上り坂が待ち受ける。それは一種の冒険譚のようにも思える。僕の頭の中の箱根の山には、西遊記のバケモノが住む。例えば、金閣と銀閣。
 各チームはバケモノの住む山に挑む。しかし、彼らも丸腰ではない。これまでのランナーたちとは一味違ったスペシャリストたちが現れる。彼らは山を自在に駆け、時に神と呼ばれる。
 彼らは特殊な仲間と金閣を退治し(あるいは退治できず)、往路が終わる。
 
 僕は次の日までSNSなんかでレースを振り返る。なんなら出雲駅伝なんかの情報もちらりと確認する。今後のレース展開を想像する。気づいているかもしれないが、もう箱根駅伝に夢中になっている。
 2日目、いきなりもう1人の山のスペシャリストが現れる。帰り道も油断はできない。慎重に、かつ思い切りよく駆け抜ける。銀閣を倒してバケモノの山を去る。
 本当に失礼なことかもしれないが、復路には花があると言うよりは、味のあるランナーが揃っているように思える。力が劣っているというわけではない。野球の下位打線というわけではないのだ。どちらかというと、サッカーのディフェンダー、あるいはラジオの年取ったパーソナリティーを思わせる。彼らは、花形でなくても、大事なところを任せたくなるランナーたちである。四年生で初めて箱根を走るランナーも多い。僕は彼らを見ると、自分の大学野球の記憶を思い出す。と言っても、実力不足の自分を実力のある彼らに重ね合わせるわけではない。僕が感情移入するとしたら、それは結局最後まで走ることのなかったランナーたち、給水という役目もなかったランナーたち、カメラにさえ映らないランナーたちだ。アナウンサーが読み上げるような分かりやすいエピソードもない。本当に、ただ実力不足で走れなくて苦しんで、走ることが(野球が)嫌いになってしまったランナーを思う。実力不足なんてありふれた苦しみだけど、ただ1人の自分が実力不足であることはありふれた苦しみではない。チームが勝ってほしいとも思えない。チームメイトの半分以上は嫌い。そこまでいくと、完全に僕の話になってしまうけれど。
 そんな無名のランナーの影が、復路の味のあるランナーの背後には見える。彼らは僕にとって霊媒師みたいな存在だ。彼ら自体は無名でなくても、影とどこかで繋がっている。霊媒師たちは裏の○区を駆け抜けていく。表裏は走る前から決まっている。でも走る。僕は、画面上で時を刻む長大な数字の1秒は、あのランナーが必死に削り出した1秒で、この調子の悪いランナーが失い続ける10秒の中に簡単に消えていくのだなぁと思う。その1秒はそれでも確かに、表と裏を結びつけているのだなぁと思う。
 山を降り、海沿いを抜け、ランナーたちは街に帰ってくる。キャッスル・ロック(スタンドバイミーを見よ)ではなく大手町である。10区の選手がゴールテープに飛び込む。走り終えたランナーも、待っているメンバーも、なんとも言えない良い表情をする。僕はまた、自分勝手にその心境を想像する。カメラに映らないランナーたちの心境を。
 もう終わったのだと、僕なら思う。もう信じなくてもいいのだと、僕なら思う。箱根に行かなくてはいけないと思わなくてもいいのだと、僕なら思う(思った)。とにかく生活の全てを何かに捧げるような4年間は終わったのだ。僕は大学最後のリーグ戦が終わった時の、安堵したような、切ないような、他では味わったことのない気持ちを思い出す。
 大学生が体一つで東京から箱根に行って、東京に帰る。その間に、何かが変わった気がする。でも、何が変わったのかは分からない。その変化は好ましいものかもしれないし、逆に重要な部品が損なわれたかもしれない。あるいは何の意味もない変化かもしれない。でも、確かに何かが変わった。それだけは言える。
 僕は一昨年の秋、大学野球部を引退した。十年以上続けた野球を辞めたのだから、これは僕のささやかな人生ではちょっとした事件だ。それから2度正月を迎えた。箱根駅伝の復路は2年とも全て見た。いや、実際には見ていないかもしれない。とにかく僕はテレビの前に座って(11時間!)、取り止めのない記憶を辿っていた。箱根が何を変えるのか、何を変えたのか、そんなことを確かめようとしたのかもしれない。まだ、分からない。

 箱根駅伝は大学生の冒険譚である。その物語に何かメッセージがあるとすれば、それはテレビ画面の中ではなく、想像の中に現れる。僕は自分の想像の中にどんなメッセージが現れるのか知りたい。だから来年も「正月やから」なんて言い訳をして、箱根駅伝を見るだろう。大学野球やスタンドバイミーと重ね合わせながら。

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