古代史のゴミ箱

 古代史が好きだ。特に世界史、ギリシャやメソポタミアの古い歴史はいつまでも見ていられる。

 この文章の結末は決まっている。紆余曲折を経て、要するに「古代史が好きな人は独りである」という結論に落ち着く。ディズニー映画が全て「真実の愛」に落ち着くのに似ている。

 昔は自分は歴史全般が好きだと思っていた。「火の鳥伝記文庫」を愛読し、学校のテストでもいい点を取る模範的な歴史少年だった。

 ところが大学受験を終えて見ると、自分が歴史全般が好きとは言えないことに気づいた。テストを離れると、あまり現代史に興味を持てないのだ。眠れない夜に眺めるのは、教科書や資料集の序盤に載っている大雑把な年表や遺跡の写真だった。

 現代史は難しい。自分が何を読んでいるのか分からなくなる。ドイツに独裁者がいました。その時ヨーロッパは大きな戦争を終えた直後で、その戦争に参加したのはイギリスとフランスとアメリカだから、でもそれぞれに住む人の思想はこうで、しかも国の中でも異なった思想が共存していて…と複雑極まりない。多くの見逃し難い要素が影響しあって物事が進む、というか進まない。全ての出来事に理由があり、それらを考えているうちに頭が爆発しそうになる。

 一方、古代史は分かりやすい。昔あるところに王様がいました。王様は隣の国を滅ぼしました。たくさんのいいことと悪いことをしました。死にました。終わり。「でも」も「しかし」も、「だから」も「よって」もない。理由があることもあるし、ないこともある。とにかく起こった。それだけ。単純この上ない。この単純さが気持ちいい。当時は古代も現代であり、複雑な要素が絡みあっていたのだろう。しかし舞台はなんと言っても古代なのだ。細々とした要素は今の僕には知りようがない。登場人物が王様だけでは、世界を知るための視点としては少なすぎる。

 そもそも当時の人にとっても世界は分からないことだらけだった可能性もある。天気とか、物の成り立ちとか、世界の果てとか。そんな無数の「よく分からない」をゴミ箱論法的に押し付けられたのが神様だったりするのだろうか。

 古代史を楽しむ時、その「よく分からない」は最強のゴミ箱として機能する。色んな要素が複雑になりそうになったら「詳細は明らかになっていない」に放り込めばいい。現代史だと調べれば大抵のことはわかる。それが困る。調べれば分かるから分からなきゃいけない。古代史はそういう煩わしさがない。今から2000年も前になると「仕方ないよな」と納得してもらえる。分からない、分かりようもない、分からなければいけない理由もない、遠いところにある物語なのだ。

 物語の分からない部分は適当に想像する。知っている些細な情報からキャラクターを膨らませると、性格が誇張されていく。登場人物がアニメみたいにデフォルメされて頭の中をコミカルに動き回る。「全人類の頭の中でケネディよりもダレイオス1世の等身が少ない」というのは僕の持論である。


 現代史と古代史についてもう一つ持論がある。

「現代史が好きな人は人数の多い場が得意」というものだ。

 6人以上の人間が集まる場所は現代史そのものと言ってもいい。あの人とあの人は同期で、あの人はこの人と仲良しだけど、その人とはあんまり馬があってない、でも同じ大学出身だから表面的には…みたいな矢印がたくさんある。そこでうまく振る舞おうとすると、頭が爆発しそうになる。自分の正しい立ち位置を見定めるには無数の情報処理が必要になる。それを正しくできる人はめちゃくちゃ頭がいいと思うし、その空間を楽しめる人はその情報処理も含めて楽しいのだろう。僕には想像もできない。

 先の持論をひっくり返すと当然、現代史が嫌いな人はそういう場が苦手、ということになる。三段論法で僕は人数の多い場が苦手だと証明される。そういう情報処理がとにかくできない。2・3人で集まって、「だから」も「しかし」もないシンプルな会話しかできない。なんでそんなことが起こったのかとかは想像で補う。面倒なことは「よく分からない」に放り込む。人数が少ない場は古代に似ている。

 要するに僕は、世界を少ない視点から眺めるのが好きなのだろう。客観的ではなく主観的によく分からない世界を眺めて、「よく分からんなあ」という感想を残す。どちらかというと、世界そのものより、世界を見ている人の方を知りたいと思う。歴史にせよ会話にせよ、そういうことにロマンを感じるのだ。


 人数の多い場を現代から古代に変える方法が一つだけある。酒である。

 酒を飲むと、古代に存在する「よく分からない」というゴミ箱が現代に現れる。本当は分かるはずのことも、酒を飲むとよく分からなくなるからだ。酔っているから人の関係性がよく分からない。そもそもこれがどういう集まりかよく分からない。分からないから分かる必要もない。大きい声で普通のことを言う人がいる。大きい声がしたからとりあえず笑う。それでいい、それがいい。

 集まって酒を飲むのは祭式みたいなものかもしれない。何もないところに「飲み会」という名前をつけて人が集まる。人々は大いに酔い、歌い踊る。酒の匂いと歌声に呼び起こされて古代のゴミ箱が出現する。いろんなことが分かりすぎてしまう現代に、「分からない」を引き受けてくれる神様が現れる。民衆はそこに日常の面倒臭いあれこれを放り込む(あるいは押し付ける)。全てを忘れて歌い踊る。そういえば、酒の周りの人間の雰囲気は遥か昔から変わっていない気がする、イメージだけど。

 翌朝、目が覚めるとゴミ箱(またの名を神様)は消えている。祭りは終わったらしい。状況は何も変わっていない。昨日ゴミ箱に入れた(神様に押し付けた)はずのあれこれが部屋に散らかっている。これを処理せずにいることはできない。現代はなんといっても現代なのだ。

 僕は処理しなければいけない情報を少なくするために、人の輪を閉じていく。現代史ができない僕は、孤独になっていく。古代史が好きな人は独りである。

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