Pさんの目がテン! Vol.14 坂口恭平『まとまらない人』について

 選書に困ったので、とりあえず手元にある本を取り上げる。
 あと、最近評判なので、意見が書きやすい。
 坂口恭平の『まとまらない人』という本を、先日買った。経緯というかきっかけは、確か先回の「好奇心の本棚」か、「Pさんの笑ってコラえて」に書いたような気がする。
 坂口恭平の展示を東京でやっていたので、虎ノ門まで足を運んで見に行った。坂口恭平は、いちばん多く長くは建築家と言っているけれども何でもやるので、小説や書き物をえらい量書いて売っていたり、その時は画家として絵を描いてそれを展示していたのだが、本人がほぼずっと展示場にいたらしい。それで、延々と喋っていた。彼は自分が言うように思いつくことがとめどもなく、その質について疑わしくいう人もいるようだけれども、そのとめどなさだけは確かで、誰かを相手にして延々と喋っていた。
 歌も歌うので、自分の絵に囲まれながら自作の歌を歌うんだけれども、図らずも感動してしまった。
 廃墟になった東京を舞台にした歌だった。
 その時、いわば一番その本を売り出そうとしているときにその本を持っておらず、坂口恭平の態度みたいなものに圧倒されて帰りの電車に乗ったので、なんとなく忘れられず、くだんの『まとまらない人』を買ったのだった。
『建築現場』や『幻年時代』など、小説というか文章の塊みたいなものを本にしたものではなく、それよりかは濃度の低いインタビュー集みたいなものだった。
 しかし、彼の考えが端々ににじみ出ていたりして、それはそれで面白かった。
 前に坂口恭平が書いた小説、『けものになること』の引用が、この本の中にあった。

 おれはドゥルーズだ。どう考えてもそうだ。見た目も知らなければ、彼がいつ死んだかも知らない。死んでいないかもしれない。しかし、明白なことがある。それはおれがドゥルーズであるということで、つまり死んだ男が、今、ここにいるのだ。わたしは、いつまでもそれが続くとは思えない。もう足の指先は幾分冷たくなっていて、小指の爪は跡形もない。それなのに、わたしは、おれがドゥルーズだと分かっていた。明確にそう認識していた。わたしは書いている。おれが書いているのか。わたしは書いていた。なぜ書くのか? おれはそれを考えている。何を? 書いていることを? 違う。眠ることを。死なないことを書いている。
『けものになること』
(坂口恭平『まとまらない人』、106-107ページ)

 坂口恭平のこの果てしもないけれどもどこか計算されている、計算されているというと違うけれどもちゃんとリズムを持った果てしなさというか理路を持っていながらとめどもないという感じ、これは確かにドゥルーズから継いでいるなという感じはした。
 ドゥルーズも、読んでいてどこか途方もないような、途切れなく続くようでいて、実はそうでもないのかもしれないと思ったり、何がとめどもないポイントなのか探ろうとしてもわかりづらかったりする。
 それから、哲学を生かした小説というのもあるけれども、学者然として授業でもやるように哲学を盛り込んだ小説とは違い、もっと当事者というか、生き生きしている感じがあってそれもよかった。
 そのあとの箇所でこんなことも書いている。
 僕は、今読書をしてそれをインプットして書くというようなことはしていない。一ページ読んだら、もうそれで十分で、何百枚も書ける。僕は、今まで人類が生きてきた何千年間とつながっているように感じているから、そこから湧き上がってくるものを書いているのであって、自分はただのトンネルでしかない。(108ページあたりの概略)
 これ、写していて気が付いたが、前回随分雑に解釈したカール・バルトの回に書いたことの、一種の答えになっている。
 読んだものから書く。しかしそれは、読んだものは呼び水でしかなく、なにか人間本来の存在から湧き上がってくるものを書けばよいので、インプットからアウトプットのようなものではない。
 前回に書いた、読んだものと自分が書くものの関数といったものとは別の次元で、少なくとも坂口恭平は、書いているんだろう。少なくとも、自分のイメージしている書くということはそうだということだ。正しいのか、実証的にどうだということは、関係ないのかもしれない。
 次回、取り扱う本が今この場で決定した。それは、今言った関数を、また別のやり方で継いでいる人の本になるだろう。

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