「純文学」というものはこれだ! そんなことまで言っていいの!? #5(ウサギノヴィッチ)
来る11月22日に、文学フリマ東京が行われます。
自分の主宰する「崩れる本棚」もサークル誌「崩れる本No.9.0」という新刊を携えて出店いたします。
ブースNo.はオー27です。
今回はそれを宣伝するべく「崩れる本棚No.9.0」に収録されている作品の批評みたいな感想みたいなことを書いていきたいと思います。
順番は収録順です。短編なので、ネタバレもしてしまう可能性がありますが、それは本誌を読んでいただいて「ウサギノヴィッチの書いてあること違うじゃねーかよ」と感じていただいて大丈夫です。
本日最終回は、Pさんの『明け方のニュース』です。
今回の作品はたぶん、ネタバレすると思います。ってか、ネタバレをしても、作品にはなにも影響がないように思えます。
作品の冒頭は、「明け方に見たニュースの映像で、……」から始まります。
そこからテレビに映る映像を無感情に描写していく。しかも、読者の想像を拒むくらいにきっちりとみっしりと描写していく。
話は、だいたい6行×45文字を1ブロックに構成されている。内容は均一化された住宅街だったり、給食ニュースを見ていたら昔の小学校のことを思い出したとかだったり、いくつものブロックに分かれて書かれている。
前々から、Pさんの小説は苦手であると公言してきたけれども、今回の小説は読めるけど、感想を書くのが難しい。ギミックとして、テレビのニュースから自分の想像しているところへ話を移行させていく、その手順はわかるのだけれども、それがマッチングできているかといえば、そうでもなく。ベタだなと思ってしまう。
「置きに行った」と言えば、そんな感じだ。小難しいこと言ったり、挑戦的なことをしなかったりで、セーフティにいった感が垣間見える。
いや、逆に読みやすくしてテキスト自体(描写や小難しいこと)のボリュームを減らしたのかもしれない。
とりあえず、この作品の狙いがわからずにいる。
それはぼくの知識不足かもしれないし、センスがわるのかもしれない。これを書くために何回も読んだのだが、それでもわからないし、最初の方に書いた読者の想像を拒むくらいの描写に説得させられているかもしれない。
とにかく、ガチガチの文学が好きな人にとってはたまらない作品なのかもしれない。